車窓

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車窓

「すみません、こっちの道へ行って下さい」  金魚が指定した経路は深夜帯ならば景気良く飛ばせるが、朝の通勤ラッシュが始まるとその2倍以上、いや、それ以上時間が掛かる。しかもこの渋滞を延々40Km以上運転するなんて真っ平ごめんだ。  案の定、行儀よく並んだ車の列に紛れた西村の運転するタクシーは、国道8号線へ合流する野々市町高架橋下で身動きが取れなくなってしまった。 「混んでますねぇ。お客さま、これでは8:00に着くのも難しいですよ?」 「・・・・そうなの」 「はい」  普段は言葉遣いが荒い西村も、勤務中はそこそこ話すよう心掛けている。これも会社の方針でもあり教育の賜物、金沢市には大規模、中規模、個人タクシーなど様々だが西村が勤める北陸交通は石川県内では最大手のタクシー会社だ。 「どうしますか?」 「どうって?」 「少し遠回りになりますが、迂回して空いている道から行きますか?」 「そんな事、出来るの」 「出来ます」  金魚は小さな口をぽかんと開けてルームミラー越しに首を傾げて不思議そうな顔をして見せた。 「他の人はいつもこのまま、ゆっくり走って行ったんだけど」 「この道を、ですか?」 「はい」 「このまま?」 「はい」  思わず振り向いた俺の横顔を、碧眼が見つめていた。 「このままだと8:00どころか8:30にも間に合わないんじゃないですか?」 「はい。いつもそうでした」 「・・・・はぁ」 (わざとメーター回して、じーさんたち(ドライバー)やりやがったな)  どうやらこれまで配車された同僚ドライバーたちは時間が掛かる渋滞の道路をノロノロとカタツムリの様にタクシーを走らせ、料金メーターをパタパタと回して乗車料金を多めに稼いでいたらしい。  日頃から先輩風を吹かせて偉そうに休憩室のパイプ椅子にのけ反っている癖に、これでは呆れて物も言えない。  そうなると負けん気の強い西村は、何としてもあのじーさんたちよりも時短、格安でこのお嬢ちゃんを山代温泉まで送り届けてやろうじゃないかと独りよがりの闘争心に火を着けた。 「お客さま、空いている道を走って宜しいでしょうか?」 「・・・・・・はい」 「ありがとうございます、それでは違うルートで向かいますね」 「・・・・・・あの」 「はい?」 「何処か連れて行ったりしませんか?」 「は?」 「しませんか?」  国道8号線の信号機が青に変わったのだろう。 渋滞の列が少しづつ前に進み始めた。金魚の素っ頓狂な問い掛けにあんぐりしていると、後続のメタリック仕様の赤いダンプカーが車間距離を狭めてこちらを威嚇してますと言わんばかりにクラクションを鳴らして来た。他の周囲の車も前に進めと苛々感を醸し出している。  西村は慌てて右にウィンカーを出し、ハンドルを握ってアクセルを力強く踏んだ。思いも寄らず急発進してしまい金魚が後部座席から前方に飛び出してしまった。 「あ、す、も、申し訳ありません!大丈夫ですか!?」 「大丈夫です」  助手席のシートで身体を支える金魚の左手首を見た西村は心臓が掴まれる思いがした。青白い肌に埋もれた何本もの茶や深い赤の横線、話には聞いた事はあるが実物を目にしたのは生まれて初めてだった。 喉仏がゴクリと上下する。 (・・・・リストカットってやつか) ふと右手首を窺うとこちらは真っ白い包帯でグルグル巻きになっていた。 (こっちもヤッてんのか、重症だな。こりゃ) 「・・・・大丈夫です」  手首の傷痕を見ている事を金魚に悟られたのかと思い、西村の白いワイシャツの脇にジワっと汗が滲んだ。 「あの・・・・運転手さんが良いと思う道を行ってください」 「あ、は、はい」  タクシーは国道8号線を少し進んだ喫茶店の角の交差点で左折し、流れが比較的スムーズな片側3車線の道路を滑るように走った。 ドライバーとしても渋滞の道を苛々しながら運転するよりもこちらの方が気分が良い。黄色い反射板を付けた途切れ途切れの白いガードレールが前から後ろへと流れてゆく。  普段の西村ならば乗車客に冗談の一つも言えるのだが、後部座席から伝わって来る全てを拒絶するかの様な冷ややかな気配にその日の天気予報や気温の暑い寒い等を話題にする事すら(はば)かられた。  製鉄工場が建つ交差点を通り過ぎ、色取り取りの看板、大きめのショッピングモールや飲食店が立ち並ぶ商業エリアに差し掛かると、後部座席の雰囲気が一変した。 「あ!」 「は、はい」 「運転手さん、ねぇねぇ、牛丼屋さんだよ!」 「は、はい?」 「あのお店好き、大好き!」  赤に黄色の看板を指差す。  それまで陰鬱に下を向いていた表情が、突然、晴れ渡る青空に輝く太陽のごとく明るくなり、その変貌ぶりに西村は驚いた。 「ぎゅ、牛丼、お好きなんですか?」 「うん!好き!すっごく好き!美味しいからでも食べちゃう!」  満面の笑みをたたえ、後部座席から前のめりで話し掛けて来る。 横顔が近い。飴の匂い。 「そうですか。どんな牛丼が好きですか?」 「ご飯が少なくてお肉がい〜っぱいの!チーズがかかったのも好き!」  身振り手振りが大きくなり、まるで万歳をしている。 その妙な明るさが薄気味悪かった。 「そうですか、チーズ、美味しいですよね。夜に食べるんですか?」 「そう!夜のお仕事の後で食べるの!」 「夜の、お仕事ですか」  コクコクと思い切り首を縦に振って頷いて見せる。 満面の笑みだ。 「うん!」 「大変ですね。」 「そうでもないよ!」 「そうでもないんですか。」 「うん!」 「今、お帰りですか?」 「うん!」 「お疲れさまです。」 「・・・・うん。」  赤いワンピースを着た金魚は突然陽気に騒ぎ始めたかと思えば『うん。』と返事をした途端、外界の全ての出来事をシャットアウトしたかの様に静まり返ってしまった。 (な、なんか俺、ヤベェ事言ったか?)  やがてタクシーはベージュか淡い緑なのか判別が付かない川北大橋を渡った。 「橋を渡るのね」 「はい」 「大きな川ね」 「手取川です」 「知らなかった」  周囲の景色は一気に寂れたものになったが西村の読み通りに加賀産業道路は後続車もまばらで対向車は5分に一度すれ違う位に空いていた。  この調子で上手く行けば7:50には山代温泉総湯のロータリーに到着している筈だ。 「早い、ですね」 「そうでしょう?」 「すごい」 「ありがとうございます」  山の中を突っ切る加賀産業道路の両側は地層が剥き出しになっている。路肩の茂みには未だ青いススキと、先端が尖った葉、紫色の小さな実を付けた背の高い雑草がタクシーの風圧にガサガサと揺れては後ろに消えた。 「紫式部(むらさきしきぶ)」 「はい?」 「あのお花、紫式部って言うの」 「そうですか」  西村は普段と勝手が違い、どうも上手く話を続ける事が出来ず困惑していた。金魚は時速80kmの車窓に流れる紫式部とやらをぼんやりと眺めながら独り言のように話し始めた。 「紫式部の書いた物語にね」 「あぁ、作家さんなんですか?」 「そう・・・とても昔の人なの」 「はい」 「紫式部の書いた源氏物語でね」 「あ、源氏物語。それは聞いた事があります」  そう言いながらルームミラーを覗くと彼女は傷だらけの左手首と白い包帯が巻かれた右手首に目線を落としながら呟いた。 「源氏物語ではね、毎晩違う女の人の所に男の人が忍び込んでセックスするの」 「は、はぁ」 「するのよ」 「はぁ」  深夜の泥酔客が口にする生々しいキーワードを若い乗車客、しかも女、しかもこの爽やかな青空の下で聞いた西村はどう返事をして良いものか戸惑った。 「も、もうすぐ着きます」 「はい」  やがてタクシーは国道8号線に合流した。  金魚は寂れたコンビニエンスストアや潰れたパチンコ屋の駐車場の雑草をぼんやりと焦点の合わない目で追っていた。 そして山代温泉街と書かれた看板でタクシーは左に折れ、ポツポツと温泉宿が立ち並ぶ中央線の無い細い道路を進んだ。やがて大宴会場を備えた高階層の温泉ホテルを何棟か見上げ、観光バスが回転するロータリーに突き当たった。その中央には如何にも観光客が喜ぶレトロな木造の総湯(公衆浴場)が建っていた。  金魚は金沢市の病院からこのロータリーに送って欲しいと言った。 ピッ  それまで乗車金額をカウントしていたメーターを落とすと料金は18、900円、到着時刻は7:55と西村的にはベストなタイムを叩き出した。ふぅと一息付く。 (渋滞に巻き込まれた時は如何なるかと思ったが、俺の勝ちだな!)  何と闘いそれに打ち勝ったのかは謎だが本日最後の営業はこれで終了だ。 「ご乗車ありがとうございました。次からは早めの時間にご予約した方が良いかと思いますよ」 「そう」 「金沢からここまで50分は掛かりますからね」 「そう」 「そうですよ、よろしくお願いしますね!」  満面の営業スマイルで後部座席を振り返ると、金魚は碧眼の目で穴が開くほどジッと俺の顔を見つめてこう言った。 「・・・・・運転手さん、格好良いですね」 「あ、ありがとうございます」  右足元のレバーを持ち上げ後部座席のドアを開けると金魚は車内に甘い飴の匂いを残し、寂れた飲み屋のごみ収集を待つ空き缶の山を避けながら細く暗い路地に姿を消した。  西村は運行管理表の青いバインダーをサンバイザーから取り出すと、7:15〜7:55/有松〜山代温泉/18.900/チケット/ユーユーランドと記入した。ふとルームミラーに目が留まる。 (・・・・俺、格好良いか?)  タクシードライバーとしては健康的な肌色。ワックスで適当に逆立てた黒髪。眉は一文字で眉間には皺が寄りがちだ。右目が二重、もう片方が奥二重のアンバランス感、口元は笑っていてもへの字でこれがまるで睨みつけている風で怖いと言いつつ妻は笑う。 (さて、帰ってビールだ。ビール) 西村はシフトをドライブに変更しアクセルを踏んだ。
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