携帯電話

1/1

401人が本棚に入れています
本棚に追加
/51ページ

携帯電話

カナカナカナカナ  隣接する緑地公園からヒグラシの鳴く声がする。窓際に吊流された薄い貝殻を繋ぎ合わせたウィンドウチャイムがシャラシャラと軽く夏の夕暮れを運んで来た。これは智と沖縄で結婚式を挙げた時の土産物だ。 「何で壊すんだよ、折角作ったのに」 「ヤダ」 「何がヤダなんだよ」  隔日勤務の疲れを癒す間も無く、考えに考えて積み上げたレゴブロックの家を何もかもヤダヤダと自己主張する2歳児怪獣の(こう)に踏み潰され、西村は床に倒れ込んだ。 「ゴフッ!」  その腹の上に飛び乗る洸、腹一杯のビールを吹き出しそうになる。それを見て夕飯の片付けをしながら智がニヤニヤと笑う。 「ママも飛び乗っちゃおうかな〜!」 「やめてくれよ!お前太ったろ、死ぬわ!」 「シヌワ!シヌワ!」 「やめてよ、洸が変な言葉覚えちゃうじゃ無い!」  その時、リビングのテーブルの上で西村の携帯電話がぶぶぶぶと鳴った。 「裕人、また鳴ってるよ?お客さん困ってるんじゃない?」 「休みの日くらい仕事はヤダヤダ」 「ヤダヤダ」 「ヤダだよなぁ?」 「ヤダヤダ!」  2歳児怪獣との意思疎通に笑いながら2人でリビングを転げ回る。  智が携帯を持ち上げるとパッと画面が開いた。同じ携帯番号の着信が10件以上続いている。テーブルの脚に頭をぶつけ、洸に頭を撫でられている西村の鼻先にそれを突き付けた。 「ほら、折り返してあげなよ。裕人がお休みだって知らないんじゃないの?」 「えぇ、面倒。名前は?」 「名前は登録されていないみたいよ?新しいお客さんじゃない?」 「そんな客いたかぁ?」  そこまで口にしてはっと思い出した。金魚だ。あの後、道端で客の手が次々に挙がり名前を登録する事をすっかり忘れていたのだ。 「思い出したわ!ちょっと折り返す」 「そうしなよ。お客さまは神さまだよ」 (神というより悪魔に近いけどな)  ベランダに出て、後ろ手でガラス扉を閉める。リダイヤル、呼び出し音が2回、3回、4回、5回。出る気配はない。  西村はベランダの手すりに寄り掛かり、暮れ始めた眼下の街にポツポツと点り始める明かりを眺めながら、廃車寸前のハイエースに乗り込んで行く金魚の後ろ姿を思い出していた。 (・・・・家に入る事も出来ないのか?)  精神科病院に通い、デリバリーヘルス嬢として身を削り、車で寝泊まりする若い女性、否、女の子に有るまじき劣悪な生活環境。捨て猫の碧眼の目が西村に縋っている様な気さえする。すると登録のない携帯電話番号が画面に表示された。 「もしもし?」 「・・・・山下です」 「山下、さんですか?」 「山下朱音です」 「あぁ!朱音さん!」  消え入りそうな声で金魚が山下朱音にすり替わった瞬間だった。 「・・・・電話」 「あ、すみません。今日、公休日、あ、休みなんですよ」 「お休みなんですか?」 「言い忘れましたね。出勤したら翌日は休みなんですよ」 「あ、そうなんですか。出てくれないのかと」 「まさか!からの電話には必ず出ます」 「そう・・・・ですか」 「はい」  以前から思ってはいたが朱音は自己肯定感が乏しく自信なさげだ。あの家庭環境ならば何か訳があるのだろう、少し気の毒になった。 「じゃぁ、明日は予約出来ますか?」 「大丈夫ですよ」 「この前の牛丼屋さんに24:30に迎えに来てくれませんか?」 「かしこまりました。予約、入れときます」 「よろしくお願いします」  携帯電話を切って後ろを振り向くと、智と洸がガラスに耳を付けてニヤニヤ笑っていた。ガラス戸を開けると2人は顔を見合わせて笑う。 「パパ、かしこまりましただってぇ」 「カシコマ、カシコマ」 「何だよ」 「なぁい」 「何だよ」 「家でもそれくらい丁寧だったらねぇ?」 「ねぇ?」 「営業用だよ、営業用!」  西村は網戸を閉め、ベージュ色のギンガムチェックのカーテンを引いた。ウインドウチャイムがシャラシャラと光を弾いて揺れた。 「ふーん、営業ねぇ」 「そうっす、営業です。日々、洸と智のために頑張っているんです」 「そうっすか」 「そうっすよ」  キッチンの食器乾燥機から洸の赤いマグカップを取り出し、シンクの浄水器の栓を捻ると溢れるほど注いで一気に飲み干す。そしてそのマグカップと同じ程に照れ臭い真っ赤な顔でベージュの革のソファに傾れ込んだ。その上に智が覆い被さり耳元で囁く。 「なぁに、良いお客さん見つけたの?」 「そうなんだよぉ」 「キャバ嬢?何処まで送るの?」 「まぁ、お水には変わりないけど・・・これがまた美味しいんですよ」  ソファがギシギシと音を立てる。智が西村の耳を引っ張りふんふんとにおいを嗅ぐ。洸が額をペシペシと叩く。 「くすぐったいよ・・・・やめろって」 「何処のお客さん?」 「山代温泉」 「おおおお、凄いじゃない!これで我が家も安泰だわ」 「でそ?」 「でそ?」 「デソ」 🎵ピロロンピロロン🎵  風呂の追い焚きが終了したと廊下の向こうから呼ぶ音がした。 「パパ、洸も一緒にお願い」 「りょーかい」 「リョーカイ」 「さ、風呂だ。風呂!明日もパパ稼いじゃうよぉ」  西村は洸を抱き抱えるとバスルームに向かった。
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!

401人が本棚に入れています
本棚に追加