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赤い紙
薄暗く細い路地裏、趣味が良いとは言えないキャバレーの看板が立て掛けられた勝手口には、分別ゴミの透明なビニール袋にウィスキーや焼酎のボトルがこれでもかと目一杯に詰め込まれ、ゴミ収集車の到着を待っていた。その横には薄汚れたベージュのビールケースが縦に4個も積まれ、その店の昨夜の盛況ぶりが見て取れる。
その奥の灰色のトタン貼りの事務所から1枚の看板が消えようとしていた。
「・・・・・え」
出勤し、埃まみれの椅子に座るように言われた朱音は我が耳を疑った。
目の前には胡麻塩を振り掛けた様な髪を頭の天辺で結んだ貧相な顔の女性と、その連れ添いである背の酷く曲がった高齢の男性が済まなそうに座っている。
「金魚、ウチの店はもう廃業だよ」
「どうして?」
「爺さんもこの通り、車を運転するのも難しい。免許返納だよ、ザマァないね」
「・・・・・・」
「歩くよ、私、ホテルでも旅館でも何処でも自分で歩いて行くよ!」
「馬鹿お言い。理由は他にも色々有るんだよ、私の身体の調子も悪いしね」
これまで黙り込んでいた”おじいちゃん”が膝に両手をついて首を垂れ、謝る素振りをして見せた。ギィとくるくる回る椅子が音を立てる。
「もうワシらは歳なんじゃ、この仕事を続けるのは・・・もう無理じゃ」
「他所に新しいハイカラな店も出来たしこんな辛気臭いデリヘルなんて誰も見向きもしないよ」
「じゃあ、私はどうしたらいいの?」
金魚の目が不安げにキョロキョロと左右に動き、内股に腰掛けた膝の上で握った小さな拳が小刻みに震えている。”おばあさん”は大きなため息を吐きながら金魚の顔をじっと見て言った。
「お前の父親の借金200万円、残り40万円、うちではもう肩代わり出来ない。次の店で稼いで返すんだよ」
ふと気付くと目の前の机や椅子に赤い紙が貼られている。
薄暗い事務所を見渡すと彼方此方に赤い紙、金魚が座っている椅子にも赤い紙、”おじいちゃん”が大切にしている九谷焼の壺にもペタペタと赤い紙が、その赤い紙はまるで金魚の赤いワンピースにもペタリと貼られているような錯覚に陥った。
金魚は震える声を精一杯抑えて小さな口をパクパクさせた。
「”おばあさん”私、どうしたら良いの?」
薄暗く苔がびっしりと生えた湿った路地の向こう側、日の差す明るい表通りを観光客だろうか。若い女性たちがカラコロカラコロと下駄の音を味わいながら笑い声も軽快に通り過ぎて行く。
「・・・・金魚、お前また客に17歳とか言ったろう」
「あ」
「お前が本番が嫌だと言うのも分かる」
「ごめん・・・なさい」
「嘘は付かない約束だったろ、ワシらもそう言われると困るんじゃ」
開け放しになっていた玄関開戸の逆光の中に、トコトコと通り掛かった灰色キジ虎の猫があくびをしてからジッとこちらを見ている。
「あっちへお行き、しっしっ!」
温泉の硫黄臭が漂う鄙びた路地裏、”おばあさん”の手付きに「にゃおう。」と野良猫がひと鳴きし、また何処かへトコトコと歩いて行った。
17歳の冬、訳もわからぬまま父親の乗用車に乗せられて”手取川大橋”を渡り山代温泉のデリバリーヘルスに売られた金魚の値段は200万円。これまで(株)ユーユーランドでその身を削って稼いだ額は160万円、借金返済の残金は利子別の40万円までに減っていた。
「毎日の小遣いも父親に巻き上げられとるんじゃろう?」
「恨むなら父親を恨んでくれ」
「うん。うん」
”おじいちゃん”が思い付いたとばかりに両手を叩いた。
「なんね、びっくりするわ」
「金魚ちゃん、金沢帰ったら市役所に相談しな。困った女に住む場所を紹介してくれるっちゅう場所があるみたいだぞ」
「そうなの?」
”おじいちゃん”は曲がった腰を出来る限り伸ばして縦に首を振った。
「あんた、良く知っとるねぇ。」
「新聞に書いてあったんじゃ。」
「その目で良く読めたもんだよ。」
”おばあさん”はすーっと煙草を吸うと”おじいちゃん”の顔に煙を拭き掛けて鼻で嗤い、彼は思わずゴホゴホと咽せペッと痰を床に飛ばした。
それでも途方に暮れた金魚の目は膝の上のリストカットに落とされ、そこにポロポロと真珠のような涙が零れ落ち、それは何本もの傷痕の窪みを流れて華奢な腕を伝う。
「金魚、もうそれはやっちゃいけないよ、約束だよ?」
「うん」
「わかったかい?病院もちゃんと行くんだよ?」
「うん」
胡麻塩の貧相な顔付きの女と、背が酷く曲がった高齢男性は憐れむような目で俯いたまま震える金魚の肩を見つめていた。玄関から少しばかり涼しげな風がすうっと3人の間を吹き抜け、奥の小窓から抜けて消えた。
赤い紙がヒラヒラと動き、昭和臭が漂う事務所に有るのは首を振りながらカタカタと回る扇風機の薄汚れた青い羽根と、椅子が軋む音。
ミーンミンミンミンジー
ミーンミンミンミンジー
裏の山から蝉時雨が降り注ぐ。
「”おばあさん”と”おじいちゃん”の事は好き」
「ありがとよ」
「どうしてもここでは働けないの?」
金魚は縋るような目で、2人を交互に見たが”おじいちゃん”が残念そうな顔付きで首を横に振った。
「お前の地元で本番なしでも稼げる店、探しておいで。良い店が見つかるまではウチで働きな」
「見つかるまでって・・・・・何日くらい・・・待ってくれるの?」
「片町なら1ヶ月もあれば見つかるだろ」
「そうだ、金魚ちゃんなら器量良しだからすぐ見つかるさ」
「・・・・1ヶ月」
そしてまた”おじいちゃん”が思い付いたとばかりに両手を叩いた。
「なんね、あんた。さっきからパンパンと、びっくりするだろ」
「金魚ちゃん!」
「うん」
「お前、いつもタクシーに乗って帰るだろ」
「あんた、何言ってるんだよ。当たり前だろ、とうとうボケたんかいね?」
いやいや違うとばかりに高齢男性は手をパタパタと横に振る。
「お迎えはいつも同じ運転手さんや。金魚ちゃんはあの男の人と仲良しなんじゃないのかい?運転手さんならお抱えの飲み屋もあるだろう。そこを紹介して貰ったらどうだい?」
”おばあさん”は煙草を緑と白のマーブル模様の丸い大理石の灰皿で揉み消しながら金魚の顔を見下ろした。
「何、金魚、あんた、そんな仲良しのドライバーが居たのかい?」
「・・・うん。居る」
「あらぁぁ、清純そうな顔してやる事はやってるんだね、本番がどうとか言ってるその口で毎晩しゃぶってんのかい!?こりゃ驚いたわ!」
パイプハンガーに掛けられたセーラー服の赤いスカーフがヒラヒラと揺れ、金魚の顔と耳が真っ赤になった。
「西村さんとはそんな事してない!」
「西村って言うのかい、まぁ大事にして貰いな。あいつら金だけは持ってるからね」
「そ、そうなの?」
「そりゃそうさ。タクシードライバーなんてね、ピンからキリまでだけど要領の良い奴は一晩で7万円は軽く稼ぐらしいからね」
徐に脚を組み直し金魚の顔を舐める様に見た”おばあさん”はこう言った。
「何ならその西村に40万円、貸してもらうのはどうだい」
「え。」
金魚がそれは思いも寄らなかったと驚いた顔をして居ると、貧相な顔付きの女性がニヤニヤと笑いながらその耳元に近付くと真っ赤な禿げかけたネイルで頬を撫で上げ、そして魔女の如く妖しい声で囁く。
「お前、そいつとやっちゃいな」
「え」
「残り40万円、利子は負けとくよ?一括でユーユーランドに返してくれればお前は自由の身だよ」
表通りではようやくゴミ収集車が到着したのだろう。清掃員の威勢の良い掛け声とそれを呑み込む機械の回転音に合わせてバキバキとガラスが割れ、粉々に砕け散る音が響いた。
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