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1.ういろう
そうだ、バーチャルワールドへ行こう
タイムラインにそっとそう投げ込んだ。
この言葉の意味がわかるのは、あの漫画を読んだことがある人間だけ。
そう人数はいないと思う。なぜならこの漫画が掲載されていたのは五年以上前、しかも年間発行部数一万という弱小中の弱小雑誌。さらに言うならこの作品は読者投票でも最下位を爆走していた代物なのだから。
だからこそこの言葉を理解できる人間は僕と近い感性の持ち主なんだと思う。
いく前にせめてそんな人と繋がりたい。
でもフォロワー数十一人の僕のこじれた書き込みに反応してくれる人間なんていないと諦めてもいた。だから、
──一緒にいきましょう。
そうDMを送ってくれる人が現れたときは奇跡だと思った。
嬉しかった。反応してくれたことも、一緒にいこうと言ってもらえたことも。
何度かやり取りをした感じだとおそらくは二十代。僕よりも敬語の扱いが上手で、少し年上のようではある。DMでの話し方は柔らかく、一つひとつ丁寧に言葉を選んでいることがわかる人だった。
ID名はういろう。
名古屋の人なのかな?と思ったけれど、住んでいるのは関東らしい。
待ち合わせ場所は海老名サービスエリアにした。
──最後ですし、美味しいものを買い込んでから参りましょう。
そうういろうが提案したからだ。
目的地からも遠くない。何度か訪れたこともあったから待ち合わせ場所としてまったく異論はなかった。
平日のサービスエリアは空いている。どことなく緩んだ空気が漂っていて、屋台が並んだエリアでは店員同士がのんびりと世間話をしていた。
さて、ういろうはどこだろう。視線を彷徨わせたとき、「未練なしさん」と声が聞こえた。
ぎょっとして振り向くと、線の細い、けれど背は僕よりも頭ひとつは高い男性が僕に向かって手を振っていた。
「未練なしさん、ですよね?」
人気のないサービスエリアに彼の少し硬質な声はよく響く。僕は赤面して、ええまあ、と曖昧に頷いた。
「未練なしさん、じゃないですか?」
僕の返事が聞こえなかったのか彼が繰り返す。僕は真っ赤になって怒鳴った。
「そうです!」
「ああ、よかった。会えなかったらどうしようかと」
明る過ぎる口調だ。これから向かう先とあまりにもそぐわない。しかしそれよりなにより、その名前で呼ばれるのがどうにも恥ずかしい。事実、店員たちの目がちらちらとこちらに向けられている。
「すみません。その名前、連呼するの、やめてもらえますか」
「え?」
ういろうが目を見張る。その彼の手にはここで売られている特大シュウマイの箱があり、十二月の今、冷気に沈む周囲を食欲を感じさせるごま油の香りで包んでいた。
「その……あまりにもちょっと……」
言いかけた僕をういろうは不思議そうに見つめた後、先ほどの笑みよりもささやかな笑みを浮かべてこちらを見下ろした。
「ではすみません。お名前を教えていただけますか?」
「あ、ええと」
僕は少し躊躇った。彼とはDMで何度もやり取りはしたが今日が初対面だ。そんなどこの馬の骨ともわからぬ輩に本名など教えてよいものだろうか。
僕の躊躇が彼にはわかったのかもしれない。彼は静かにもう一度笑むと、低めた声で言った。
「どのみち、僕らはもうすぐあっちに行くわけなので、今さら本名を知ったところで僕はあなたになにも害を及ぼすことはできませんよ」
あっち。
彼がそう言ったとたん、僕たちを囲む空気が温度を下げた気がした。思わず右手で左手の袖口を引っ張る僕に、彼は朗らかに言った。
「じゃあ僕から名乗りますね。宇崎一郎です」
「うざき、いちろう?」
だから、ういろう……。
噴き出しそうになった。けれどぎりぎりでこらえる。人の名前を聞いて笑うなんて良くない。けれどういろう、もとい、宇崎はそんな僕の表情の変化をあっさりと読み取って先回りするように言った。
「名古屋出身と思ったでしょう。ふふ。違います。騙されましたね」
楽しそうに肩を震わせて笑う。その彼には何の影も見えない。あっちに行きたいと思っている人とはとても思えない。
「あの……あなたは本当にあっちに行く気があるんですか?」
思わず反感めいた声を出すと、彼は涼し気な一重瞼をすっと開いてこちらを見下ろしてからおっとりと笑った。
「いずれにしてもここで立ち話もおかしいですし、買い物を済ませてから車へまいりましょう」
そう言って背中を向ける。そこで、あ、と声を上げ、彼がこちらを振り返った。
「お名前をお聞かせいただけますか?」
やっぱり少し躊躇った。けれどういろうの言う通り名前なんてもう不要になるのだ。教えてもいいだろう。
「鈴木多紀です」
「すずき、たき、さん」
フルネームで諳んじてから、彼はにっこりと笑って提案した。
「では多紀さんとお呼びしますね。私のことはどうぞういろうと」
「……なんで本名でなくてういろうなんですか」
「その方が多紀さんも落ち着くのではないかと。ういろう、お好きと仰ってましたしね」
確かにDMでの会話でそう言った覚えはある。しかしやっぱりなにか違和感がある。
不審に思う僕の気持ちを置いてきぼりに、じゃあ行きましょうか、とういろうは笑った。
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