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7.バーチャルワールドへ
きっぱりと言われ、僕はぎょっとする。彼は僕からついと目を逸らすと後部座席へと手を伸ばした。鞄を引っ張り寄せ中から出したのはA4版の茶封筒だった。
「見てください。これがヒロキの選択です」
促され躊躇う。見て、と強引に茶封筒が胸元に突き付けられ、退けきれずに手に取った。先ほどまでの穏やかな顔つきが嘘のような厳しい目に圧されるようにして僕は封筒を開けた。
それは……漫画の原稿だった。
「これ、負け犬ヘブンの最終回……」
「最後のページを見てください」
ういろうが急かす。言われるままにページをめくり、僕ははっとした。
なにかがおかしかった。
「掲載されたのとラストが違う……」
「そう。バーチャルワールドへ行こう、そう皆の前で笑って高層ビルから身を躍らせる。そして、死ぬ。それが掲載されたラスト。読者受けすると考えた編集部の指示によってできたラストです。でもこちらは違う。ひとり命を絶とうとする彼の前に愛する彼女がやってくる。彼を涙ながらに見送ろうとする彼女の前で彼は泣いて喚いて死にたくないと叫ぶ。その彼の姿を見て彼女は彼を抱きしめ言う。
『バーチャルワールドへ行こう』って。
ふたりを受け入れてくれる世界なんてもうない。それでも彼らは逃げます。世界中の人間から。だからね」
ういろうの指がラストページの一文をそっと、なぞった。
「そうだ、バーチャルワールドへ行こう。
この言葉はね、彼等の願いなんですよ。ふたりでいればバーチャルの世界を作るのと同じくらい簡単に世界はできる。だから大丈夫、そんなふたりの願い。──ねえ、多紀さん」
ういろうが僕の名前を呼ぶ。彼の声は滲んでいた。
「できるんですよ。世界は。ひとりでもわかってくれる人がいれば。できるんです。
僕はただの刑事だけれど、少なくとも僕はあなたの声に気づけた。僕は……あなたと世界を作りたい」
ういろうの目は、潤んでいた。
「あの……でもなんで。あなたがそんな風に言って……」
言いかけて僕はふっと口を噤む。
SNS。炎上。自殺。
ういろうの語った言葉が頭の中でぐるぐる回った。
「もしかしてあなた、大島孝臣の……」
ういろうは少し笑ってから僕の手から原稿を取り上げる。丁寧に元通り封筒に収めつつ、彼はぽつりと、兄です、と答えた。
「大島孝臣はネットでの炎上が元で亡くなりました。先に炎上してしまっていた友人を擁護する発言をしたって理由で叩かれてね。問題発言をした友人は確かに悪かったでしょう。でも……無関係な人間がよってたかって誹謗中傷をしていい理由にはならない。弟はそう言ったんです。でもそれがいけなかった。結局……弟は周りからの声に耐え切れず死んでしまった」
ういろうの指が封筒をそうっとなぞる。
「弟はね、こっちのラストにならなかったこと、本当に悔しがっていたんです。死に正当性なんて少しも感じていなかったんです。少しもね。なのに行ってしまった」
バーチャルワールドへ。掠れた声でそう彼は続けた。その横顔を見ながら僕は思い出す。
負け犬ヘブン。最終回が掲載されたとき、ラストのヒロキの選択に涙しつつ、彼が生きていける場所はなかったのかと僕自身が胸が痛くなるほど考えたことを。
僕はういろうの顔をそっと見つめる。彼は泣いていた。原稿を指でなぞりながらひっそりと涙を落していた。
誰も味方なんていない。そう思っていた。でも……多分、この人は違う。
自分と同じようにあのラストに胸を痛めてくれるこの人は、僕を支えてくれていた負け犬ヘブンを描いた大島孝臣の兄であるこの人は……多分、僕を裏切らない。
「バーチャルワールドへ、行けますかね。生きてても」
呟いた僕にういろうがふうっと目を向ける。
彼の目はやっぱり赤かった。でもそれでも、彼は笑った。
そして、ゆっくりとこちらに片手を差し出して言った。
「行きましょう。バーチャルワールドへ」
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