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漂流
土手に腰掛けて、ずっと海を眺めていた。眺め始めたときにはまだ高いところにあった太陽も、いまでは水平線の彼方へ半ば沈みこみかけていて、だんだんとあたりは暗くなり始めている。日没まではあと一時間といったところか。
もうじき、よるが来る。
この海まで、電車とバスをいくつも乗り継いで、ようやくたどり着いていた。
事前に計画していたことじゃない。
いつもと同じ時間、同じ番号の車両に乗って、わたしは会社に向かっていた。つり革に掴まり、何も考えず、何も見ず、何も聞かず、ただ地点Aから地点Bまで粛々と運ばれていた。
その途中、電車がとつぜん大きく揺れた。わたしはほんの半歩ほどたたらを踏むにとどまったのだけど、隣に立つ、朝から妙なほどもの哀しげな顔をした小太りのおじさんは、たまらず体のバランスを崩してしまった。そしてかれの足裏は、わたしの足の甲を思い切り踏みつけにしていた。人目もはばからず悲鳴を上げたくなるほどの強烈な痛みが、わたしのからだをまっすぐ縦に射貫いた。
そのときだ。衝動的に海を見たくなったのは。
ネットや写真じゃ駄目なことはすぐに分かった。文字? 試す価値はあるのかもしれないが、わたしの持ち合わせの想像力では、おそらく徒労に終わるだろう。
直接、この目で、見る。
割れるほどに奥歯を噛み締め、痛みを押し殺し、軽く頭を下げる表情のない男に、わたしは小さく会釈を返した。仕方がないですよ、あなたのせいじゃない、あなただって、きっとそう思ってるんでしょう?
そうしてわたしはB地点への到着アナウンスを無感情に黙殺して、ついにここまで来たのだ。スマホの電源はとっくに切っていた。電源ボタンを長押しして、画面に表示された「シャットダウン」の赤いアイコンを指先で押し込んだとき、スマホだけでなく、わたしのからだのどこかも同時にブルっと震えた。
よるが、すぐそこまで近づいてきている。
宿を見つけなければならない。
だけど、スマホの電源は切れている。そして、電源を入れる気にも、てんでならなかった。そもそも、ここはどこなんだろう。さすがにだいたいのあたりくらいはついているものの、正確な地名とかはまったくわからなかった。あたりを見渡してみるが、異邦人のわたしに情報をもたらしてくれる親切な看板などはどこにも見当たらず、くわえてひと気もない。やれやれとため息をついたわたしは、ふたたび海を眺めた。海はいくら眺めていても飽きない。打ち寄せる穏やかな波は打ち寄せるたびにその表情を変え、わたしに多様さという言葉の意味をこっそりと教えてくれる。
視界の端に、何かが映った。
ここしばらく、ずっと誰もいなかった砂浜に、ひとりの女性が姿を現した。遠目にも「綺麗な女の人だな」とわたしは思った。長い黒髪をポニーテールにした彼女の服装はいかにもスポーティな出で立ちで、見るからにしなやかでやわらかい肉体を持っていそうに見えた。
別に海を眺めるのに飽きたわけではなかったのだけど、観賞の対象を海から人間に変えてみた。すると、準備体操を終えた彼女は、間もなく、砂を蹴り、腕を振り上げ、そのからだを思い切り躍動させ始める。ダンスだ。音楽は何もかけていないようで、こういうとき歌であればアカペラと呼ぶのだろうけど、ダンスのことはどう呼べばいいのだろう。そんなことすらも知らないほどダンスとは縁のないわたしだったが、素人目にも彼女が素晴らしい腕前を持っていることだけは分かった。砂浜に足を取られることもなく、縦横無尽に自分というものを全身で表現している彼女を見つめていると、どこで耳にしたのか、「砂漠に咲く一輪の華」という言い回しが急にポツンと浮かび上がってきた。しばらくのあいだ、ぼんやりと彼女を見つめていた。
両腕を乱暴に掴まれ、同時に口を覆われた。
地球が急ブレーキをかけたみたいに、わたしのからだは一気に後ろに引きずり倒された。
視点の先を見失ったわたしの目に無遠慮に飛び込んで来たのは、まったく面識のないふたりの男の顔だった。どちらの口もだらしくなく半開きに歪んでいて、目にはうす気味悪い、淀み濁った光がやどっていた。暴れるわたしを押さえつけながら、片方の男が言った。
「こんなところにひとりでいちゃ駄目だよ、お姉ちゃん。ねえ、お母さんにそう教わらなかった?」
ふざけた質問だった。むろんそんな問いに答えるつもりはなく、大声をあげようとして激しくもがいたが、口をおさえていた男が突如わたしの口を強引に開かせ、何か妙なものを噛ませた。それでわたしは大きな声が出せなくなった。声を出そうとしても「ひゅうひゅう」と息が漏れるくらいの音しか出せない。しっかりと閉じることのできなくなった口の端から、ぽたぽたとよだれが垂れているのが分かった。
「暴れないでね。俺らも暴力とか? べつに振るいたいわけじゃないからさ」
そんな、またふざけたことを口にして、わたしをしゃべれなくさせた男は、わたしの足元の方へと移動を始めた。見ていて吐き気をもよおすくらい愉快げな足取りで、事実、もう吐きそうだった。そしてわたしの両足のちょうど真ん中あたりで立ち止まった男は、あたかも世界中に不快を撒くためだけにかたどられたみたいな、そのごつごつとした汚らしい手を、ぬっとこちらに差し伸ばして来て――
「とおっ」
その格好のまま、横方向におもいきりすっ飛んでいった。
ふたたび視点の置き先を失ったわたしの目は、すぐさま新しい視点の置きどころを獲得する。
それは再会。
男に豪快な飛び蹴りを放つ、「砂漠に咲く一輪の華」との再会だった。
◆◇◆
「すこしは落ち着いた?」と彼女はわたしの肩をそっと抱き寄せながら言った。わたしは黙ったまま、ちいさく、ほんとうにちいさく、こくりと肯いた。自分が本当に落ち着きを取り戻せているのか、そんなことはまったく分からなかったのだけど、彼女のかけてくれた言葉を否定したくない気持ちが不意に芽生えていて、わたしの首を縦方向になかば自動的に振らせていた。
「……そう。つよいのね、あなた」
そう言って、彼女はバッグから薄荷たばこと百円ライターを取り出すと、一本口にくわえ、手慣れた様子でたばこの先に火をつけた。「あなたも吸う?」とたばこの箱を差し出されたけれど、すこし考えてから、首を横に振って断った。
わたしは、つよくなんて、ない。
たばこをくちびるから離し、軽やかに吐き出された煙が、その花のような香りとともに、世界と、そしてわたしとのなかに、深く深く染み渡っていく。
わたしたちはいま、浜辺の砂浜にふたりきりで腰掛けていた。彼女はわたしが思っていた以上にしなやかでかつ豪胆な人物だったらしく、あっという間に暴漢ふたりを文字通り蹴散らしてしまった。ひとり目は最初の一撃を横っ面に喰らって以降、一度も立ち上がることはなかったし、もうひとりも呆気にとられていた初っ端に見事なハイキックを顎に叩き込まれ、すぐさま戦意を喪失させられていた。被害者であるわたしが言うのもなんなのだが、見ていてかわいそうになるくらいの怯えぶりだった。
直後、その怯えた顔の男は逃げた。もうひとりは土手のうえで今ものびている。彼女が警察に電話をしてくれて、いまはその到着待ちだ。のびた男の両手両足は、たまたま浜辺に流れ着いていた荒縄のロープで固く縛っておいた。どこから漂着したのかは知らないけれど、もとの持ち主に感謝しなければならないだろう。
「あなた、この町の人じゃないよね?」と彼女が言った。
「あ、はい。東京から」とわたしは言った。
「観光?」
「ええ。まあ、そんなところです」
「ふーん。こんな何もない町に、ねぇ」
相槌をうった彼女が、再び薄荷たばこを口にくわえたとき、今度はわたしが彼女に訊いた。
「あの、もしかしてプロのダンサーさん、なんですか?」
「そう見えた?」と彼女が目を細めながら言った。わたしがしきりに頷くと、彼女は首を横に振った。「わたしはダンサーじゃない。プロだなんてもってのほかよ。バレリーナでもないし、新体操の選手でもない。誤解がないよう付け加えておけば格闘家でもないわね。しいていえば、わたしはわたしよ」
言っていることの意味が分からなかった。わたしの、そんなちいさな混乱が伝わったのか、彼女は短くなった薄荷たばこを携帯灰皿の中に押し込んでから、もう一度口を開いた。
「あれはね、表現しているだけなのよ。わたしがわたしを表現する方法のひとつ。あなたの目にはそれがたまたま踊りに見えた。でもわたしはあれを踊りとは思っていない。あれは、わたし自身。それ以外の何物でもないの。……ねえ、ところであなた、今夜はどこに泊まるつもりなの? 今から東京まで戻るのは、ちょっと大変よ」
追加の説明を受けてもなお、相変わらず言っていることの意味は分からないままだったが、わたしは「まだ決めていません」と正直に答えた。いろいろあって、そのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
「困った子ね」と彼女はくすくすと笑みをこぼし、「うちに来る? 一晩くらいなら泊めてあげる」
もちろんわたしは恐縮した。あぶないところを助けてもらったうえに、これ以上ご迷惑をかけるわけには。
「いいのよ。たまには誰かと過ごす夜も悪くないから」と言って、彼女はわたしの肩をさらに深く抱き寄せた。最初の印象通り、とても力強い手だ。でも怖くはない。やさしくて、おだやかで、きっと彼女にふさわしい、ちからづよさ。
そうまで言われてしまっては、断るのも逆に失礼か。
わたしは肩に回された彼女の手に自分の手のひらを重ね、軽く握り返しながら。
「お世話になります」と言った。
◆◇◆
警察が来て、事情を説明しようと、彼女とふたりで浜辺から立ち上がろうとしたそのとき、少し離れたところでなにかがキラリと光るのが見えた。なんだろうと目を凝らすと、砂浜に細長い何かが転がっているのが見えた。ビール瓶だった。鈍い光の正体は、いままさに沈みきろうとしてる太陽の、最後の最後の残滓が茶褐色のガラスに差し込み、反射したものだった。
わたしはそのビール瓶を、すこしのあいだ立ち止まって眺めていた。
同じだ。
同じだ。
空っぽで。
役立たずで。
ひとりぼっちで。
気がつけばこの浜辺に漂着していた。
わたしと。
「どうかした?」と彼女が心配そうに声をかけてきてくれた。彼女は立ち止まっていたわたしの顔を、軽く覗き込んで。
「大丈夫? なんなら話は明日にして、今日はもう帰ろうか?」と言った。
わたしは、その魅力的な提案について、ほんのすこしだけ考えてみてから、「大丈夫です。こんなこと、今日のうちにケリをつけたいですから」とかぶりを振って応えた。
「ほんとうに、つよい子ね、あなたって」
そう言って、彼女は笑った。
「じゃあ、行きましょう」
力強く、でもけっして無理やりにではなくわたしの手を引いてくれる彼女の、とてもうつくしい背中をうっとりと見つめながら、わたしは最後にもう一度だけ、どこからか流れ着いた一本の孤独なビール瓶に視線の先を向けた。
太陽はついに沈みきり、ビール瓶は輝くきっかけを失った。
そして、視線をまえに戻したわたしは、彼女の手から伝わる確かなぬくもりに身をゆだねながら、夜の帳がおりかけた名前も知らない浜辺を、軽やかに駆けた。
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