4人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
1.
とある9月の夜7時。同じ吹奏楽部の神楽と帰路についていると、大きな月が俺たちを見下ろしていた。
「今日って満月なのか? やたらと大きい気がするけど」
隣を歩く神楽は、腰まである黒くて長い髪をサラリと後ろへなびかせる。そのとき小さく吹いた風が彼女を香りを運んで俺の鼻腔をくすぐった。
「満月は明日だよ。スーパームーンっていうやつ。1年でいちばん月が大きく見えるんだって。今日は満月の前日、小望月だよ」
「小望月……」
へぇ。満月の前日に名前なんてあるのか。
そんな小望月は俺たちの帰りを見守るかのようについてくる。
「……月に、行ってみてぇな」
大きな月を見ていると、無意識にそんな言葉をポツリと呟いていた。
有名人が大枚をはたいて数人で月へ出かけると発表されたのは、いつの話だったか。金さえ出せば月にも行けるということが頭の片隅にあったのか、特に深く考えずに口から出た言葉だった。
神楽はそんな俺を笑うことなく、平然として言う。
「月、連れてってあげようか?」
「……は?」
「いや、だから、篠崎くん、月に行きたいんでしょ? あたしが連れてってあげるよ」
「……え?」
「何回言わせんの。だから、あたしが、篠崎くんを、月に、連れてってあ、げ、る!」
真面目な顔で必死にそんなこと言うもんだから、こっちが笑い出しそうになった。神楽が俺を月に連れてってくれるだと?
あともう少しで10月に入るのに、厳しすぎる残暑で頭がやられちまったのか。
「神楽の家って金持ちだっけ?」
「ううん。お父さんがお医者さんだけど、そんな金持ちってほどでもないよ」
「月って、そう簡単に行けるもんじゃないぞ? どっかの社長だってウン億円、いやウン百億円出して行くっていう話だし」
「知ってるよ。あたしね、実はかぐや姫の血を受け継いでるの。満月の日は月から使者が来るから、ときどき帰ってるんだ」
とうとう俺の足が止まった。それに気づかず神楽は数歩俺の前を歩く。
かぐや姫の血を受け継いでる? ときどき帰る? なに言ってんのこの子。
神楽は俺が立ち止まっていることに気づいて、振り返った。
「篠崎くん? どした?」
「……神楽、毒りんごでも食べた?」
一瞬キョトンとした神楽は、首を少し傾げた。
「いや? 眠ってるとき、王子様にキスされたかも」
「……おとぎ話が渋滞してる」
神楽が背中で斜め掛けしているフルートのハードカバーケースについたキーホルダーが、俺を笑うようにカチャリと鳴った。
神楽は俺にとってただの部活仲間だ。たまたま家が近かったのでこうして毎日一緒に帰っているだけで、高校から知り合った、お互い深いところまで知らない関係だった。それをいきなり『あたし、かぐや姫の血を受け継いでいるの』だと? さすがにそれは無理があるだろう。
「あはは。神楽ってそんな冗談言う奴だったのか。熱中症か? 帰ったらたくさん水飲めよ」
面白い奴だとは思っていたけど、ヤバい奴だとは思っていなかった。
歩き始めた俺の後を、神楽が追いかけてくる。
「月、いいとこだよ? 住むには適してないけど」
「そうか。じゃあ機会があれば俺も連れてってくれ」
「分かった。約束する」
神楽も冗談を言ってしまった手前、後に引けないのだろう。叶いもしない約束を簡単に取り付けて、俺たちは月に見下ろされたままいつもの交差点で別れた。
最初のコメントを投稿しよう!