10 ありがとう。ごめんなさい。

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10 ありがとう。ごめんなさい。

 フラフラになりながら甲板に出ると、船員がいびきをかいて寝ていた。雷雨は去っていて、船には嵐の爪痕が多く残っていた。それでも、船は穏やかな海をまっすぐ進んでいる。  青い海を見ていたら、地平線から太陽が昇ってきた。海面に真っ直ぐな光の道ができていく。 「くわっ……ああ、お嬢様、無事ですか?」  船長が大あくびをしながら、声をかけてくれる。わたしが頷くと、にかっと笑った。 「嵐が去った後の海は、キレイでしょう?」 「はい……」 「俺の女房の若い頃にそっくりですわ! がはははは!」  船長は大笑いをして、太陽を見ながら言う。 「俺は学がねぇから、難しいことはわかんねえっす。だけど、お嬢様。生きてさえいれば、いいことはありますよ」  そう言って、船長は人差し指と中指をクロスさせた。ピースに似ているが知らないハンドサインだ。 「それは?」 「グッドラックって意味のサインですわ」 「幸運を……ですか?」 「俺の出身は、はるか遠い大陸の地でしてね。そこでよく使われていたサインです」 「そうだったのですね……」 「商人に帝国にくりゃ、夢のような金が手に入るって言われて、仲間たちと一緒に船に乗って来たんですよ。まあ、すっかり騙されましてね。俺らは奴隷として、物のように売られたんです」  船長は太陽に向かって、ハンドサインを向ける。 「奴隷として一生こき使われるって思っていたら、なんとまあ、ポンサール公爵様は俺らにも戸籍をくれました。浅黒い肌の俺らを差別することもなく、ひとりの領民として認めてくれた。嬉しかったですねえ」  船長が話しているのは、わたしが生まれる前の話だろう。  父が領主になったばかりの頃、安い労働力を得ようと奴隷貿易が盛んだった。名前を持たず、ナンバーだけで呼ばれていた彼らを、父は住民として扱えるよう、戸籍登録したのだ。  戸籍は身分証となり、航海がしやすくなる大切なもの。後に奴隷貿易は全面的に禁止となっている。 「俺らは、あの時の恩返しをしたかった。公爵様の頼みとありゃ、なんでもやりますわ。がはははは!」  父の功績が、わたしを生かす道を作ってくれている。  太陽が作る道のように、まっすぐな思いと共に。  そう思うと、泣けてきた。 「見えてきましたね。帝国です」  地平線に島が現れる。  サイユ王国より、はるかに機械化が進んだ国。ルベル帝国。帝国は大陸と接していない島国だ。  白い崖が見え、港湾が近づく。  この国で暮らすという実感がわかないまま、わたしは船長に言われて髪と表情が隠れるフード付きローブをまとった。  港に着いた。積み荷の確認をされていると、港の警備員が船長に尋ねる。 「ん? そこにいるのは誰だ? 来航者リストに載っているか?」  警備員は、わたしを見て不審がっている。わたしは胃が痛くなるのを感じながら、うつむいた。 「がははは! そんなこまけえことは気にするな! 俺とブラザーの仲じゃないかっ」  船長が不意に警備員と肩を組んで、くるりと後ろを向かせた。警備員が顔をしかめる。 「私と君は、顔見知りではないぞ?」 「がははは! 目が合った瞬間から、俺とおまえはマブダチだ!」  船長の声を呆然と聞いていると、船員の一人がわたしに耳打ちをした。 「いまです。あっちに帝都へ行く道がありますよ」  船員がグッドラックのハンドサインをする。背中を向けた船長も、わたしに向かってグッドラックのサインを送っていた。わたしは泣きそうになりながら、小さく腰を落とした。 「――ありがとう」  わたしは教えられた道に向かって走りだした。正規の入国ではない。でも、彼らの思いが、わたしの足を動かしていた。  がむしゃらに独りで走る。  悲しくて、悔しくて。涙が出てきた。 「ごめんなさいっ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」  わたしが公爵令嬢として暮らせたのは、領地の人々がいたからだ。わたしは彼らに育ててもらい、恩返しができないまま、帝国へ行く。  だから、せめて。  これから先、どんなに辛くても自ら命を捨てることはしないでおこうと思った―― 「ごめんなさい……」 「……どうして謝るの? リアは何も悪いことをしていないよ」  呟くように言うと、返事があった。優しく心地よい声だ。兄だろうか。  瞼を持ち上げると、輝くようなサンシャインイエローの髪が見えなかった。  ぼんやりした目で捉えたのは、白皙の美貌。どうやら、わたしは夢の途中にいるらしい。 「閣下が目の前にいるような気がします。夢ですか?」 「残念ながら、現実だよ。調子はどう?」 「つまり、わたしは熱を出して倒れて、それを見つけた管理人さんが閣下に通報したわけですね」 「ご明察」  目だけを動かして辺りを見渡す。閣下の自室だ。いつの間にか、わたしは閣下のベッドまで運ばれたらしい。  不調の時は、目を覚ますと閣下の顔。というドッキリが度々あったので、今更、驚きはしない。  しかし、閣下のベッドを独占しているわけにもいかない。わたしは体を起こし、敬礼をした。 「調子は戻りました。大丈夫です」 「そう……じゃあ、リアの好きなスープが食べられそうかな? ほら、野菜の形が崩れるまで煮込んだやつ」  にっこりと笑った閣下を見ていたら、きゅるっておなかの音が鳴った。動揺して敬礼が崩れる。 「はははっ。食べられそうだね。持ってこさせるよ」  閣下はご機嫌で、部屋から出ていってしまった。  おなかで返事するとは、不覚である。  顔を覆って、のたうち回りたくなるぐらい恥ずかしい。  ゴロンゴロンして閣下のベッドに皺をつけるわけにもいかないので、脳内イメージだけで済ました。  閣下が持ってきたスープは本当に美味しくて、優しい味だった。ありがたく完食する。一年前に比べると、我ながらずいぶんと、図太くなったものだ。  ふぅと息を吐いて落ち着くと、閣下が保安隊の制服を用意してくれた。 「はい。リアの制服」 「……ありがとうございます」  なぜわたしのスリーサイズがぴったり合った制服が、閣下の自室にあるのだろう。不思議だ。  疑問は尽きないが、ここはありがたく着替えさせてもらおう。 「何から何まで、お気遣いありがとうございました」  再度、敬礼すると、閣下は砂糖がドバドバ入った紅茶のような笑顔になった。 「もっと、頼ってくれていいんだよ」  声まで甘いのは、ちょっとずるい。疲れた心に沁みてしまう。 「いつも頼りにしています」 「そうかな? 全体重を乗せるくらいがちょうどいいんだけど」 「それだと重――」 「――くはないでしょ。リアぐらいの軽さなら、小脇に抱えられる」  乗り心地が最悪な運搬方法を思い出して、そうでしたね、って思う。  ぼんやり閣下を見ていると、紅い瞳がすっと細くなった。  それに伴い、わたしたちの間にある空気が張り詰めていく。  ――この表情。仕事かしら? 「保安隊に、陛下から特命がでたよ。三年前に起きた連続テロ事件の容疑者が見つかったって」 「……三年前……それはっ」  言おうとして、口をつぐんだ。  三年前の未解決事件といえば、帝都連続爆破だ。複数のグループで起きた暴動で、騒動事態は鎮圧されているが、一人、取り逃がしている人物がいた。通称、ブックマン。大規模な爆破を起こして逃走している。そして、爆破に巻き込まれた閣下は、左腕を失った。 「ブックマンが見つかったということですか……」  心臓の音が大きくなっていく。 「そうだよ。サイユ王国でね」
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