2.先輩の退職

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「偶然見かけたから。台車引っ張ってたから、もしかしてと思って、そっちの部署の人に聞いたんだよ」 私は納得し、なるほどと頷いた。 「そうだったのね。本当にありがとう」 「そこまで感謝されるようなこと、特に何もしてないけど」 「うん、でも」 と、私は宍戸に笑顔を向けた。 「ありがとう、なの」 あの時宍戸に声をかけられて、隣の部屋の二人にばれた、まずい、としか思わなかった。でも今こうやって落ち着いて考えてみると、逆に宍戸が現れてくれてよかったかもしれないと思う。もしもあのままあの場から動けないでいたら、あれ以上のつらい現実を知ることになったかもしれない――。 「それなら良かったけどさ」 宍戸は私の顔をまじまじと見つめている。 「なに?」 怪訝に思って私は宍戸の顔を覗き込んだ。 宍戸ははっとした顔をして、何度か瞬きをした。 「いや、なんでもない。……えぇと、コピー頑張れよ」 「うん、宍戸も頑張ってね」 「あぁ。じゃあな」 宍戸はそれだけを言うとふいっと顔を背けて、そのまま振り返ることなく仕事に戻って行った。 その後ろ姿を見送って私は首を傾げた。 「気のせいかな。なんだか急に態度が変わったような……。私、何か変なことでも言った?」 その後、私は二台あるうちのコピー機一台を占領した。思っていたよりも長時間、資料が吐き出されるのをひたすら見守り続ける。印刷された大量の紙を、用意していた段ボール箱二つに分けて入れ、フロアの端の方に移動した。そこにある作業用テーブルの上に資料を並べてから、別添え用の資料をクリップで止めるという地味な作業に黙々と取り組んだ。 「やっと終わった……」 ひとり言を言いながら窓の外を見ると、すでに真っ暗だった。 早く帰れると思ったんだけど、甘かったな……。 やれやれと思いながら見上げた壁の時計は、間もなく八時になるところだった。 自分の席の辺りに目をやると、遼子さんと先輩数人の姿が見えた。作業に集中していて気がつかなかったが、その他の女子社員たちはすでに帰ってしまったようだ。営業職たちはまだ大半が外出中らしく、席のほとんどが空いている。
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