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――――最近、あのミケ見ねえなぁ
朝、庭先を竹ボウキで掃く手を止めて、ジイちゃんがふと呟いた。
あのミケ、というのは野良の三毛猫のことだ。三毛猫だからミケ。ジイちゃんが名づけた。何て単純なネーミング。
去年、長く闘病中だったバアちゃんが死んで、あの大酒飲みで口うるさいジイちゃんがすっかり気落ちしていたところに、どこからともなくその三毛猫はやってきた。
そして、ジイちゃんが気まぐれにエサをあげた日からずっと、荒天の日を除けばほぼ毎朝ウチの庭先にやってきていたあの猫。
そのミケがパタリと姿を見せなくなって、今日で10日経つ。
ジイちゃんの言葉に相づちも頷きもしなかったけれど、俺もそのことには気づいていた。どこか他にいいエサ場が見つかったのか、誰かに拾われたのか、もともと飼い猫だったのか。
それとも。
猫は、死に際に姿を消すらしい。
「もう、来ねえのかもしれねえなぁ」
ジイちゃんはぽつりと呟くと、俺のことは見ずに黙々と庭を掃き続けた。
******
「・・・あっちィ」
家を出て何気なく空を見上げると、その光の強さに思わず手をかざした。
夏の終わりが近づく8月下旬、まだ終わらせないとばかりにジリジリと照りつける太陽が痛い。焦げそうだ。
「死ぬなら夏は勘弁だな・・・」
こんな日に死んだりしたら、あっという間に干涸びそうだ。そこまで考えて俺は薄く笑う。ダメだな、どうにも思考が死に引っ張られていく。
「あ、律くんが来た!」
「おう」
今日は、幼なじみ五人で水族館へ行く約束をしていた。発案者は、今俺に向かって手を振っている陽菜だ。他に、双子の兄弟である悠人と湊人も来ている。つまり五人中四人が揃ったわけだ。
「これ、あとは何待ち?」
「もちろん翔平待ち。あと5分だけ待って!だってさ」
寝坊したんだと、と湊人が笑っている。
待ち合わせでいつも遅刻するのは翔平だ。実は俺も地味に待ち合わせ時間から遅れて到着しているのだけれど、強烈に朝が弱い遅刻魔の翔平のおかげであまりバレていなかったりする。
まぁただ一人、しっかり者の湊人には気づかれていて「ちゃっかりしてるよな」と言われているけれども。
そんなわけで、すっかり翔平の遅刻に慣れっこになってしまった俺たちの間では、いつからか待ち合わせ場所といえば『翔平の家の前』がお決まりになっていた。
そのとき。
視界の端で何かが横切った気がして、俺は目先の十字路に視線をやった。
打ち水された地面に佇む猫の姿が、ゆらゆらと蜃気楼のように揺れている――気がした。もしかして、、
「律くん、どこか具合悪い?」
不意に、何の躊躇いもなく伸ばされた陽菜の手が頬に触れて、俺は我に返る。
再び先の十字路に焦点を合わせるも、猫の姿はない。
「・・・・あちィよ、子ども体温」
「もう!子どもじゃないし!」
俺が体を後ろに引くようにしてその手から逃れると、陽菜がむっと膨れた。普段はボケているくせに、どうしてこういうところにはすぐ気がつくんだか。
「少し寝不足なだけ。暑くて寝つき悪かったし」
寝不足なのも寝つきが悪いのも嘘じゃない。
気分が優れない理由がそれ以外にあるというだけで。
「そっか、最近ずっと熱帯夜が続いてるもんね。夜でもエアコン付けた方がいいよ?」
俺の適当な返しに、陽菜はあっさりと納得した。
鋭いけれど単純。それが陽菜の短所であり長所だと思う。
「みんなごめん!!待った!?」
「待ったに決まってるでしょ、遅いよ翔平」
ようやく家から飛び出してきた翔平に、湊人が正面からつっこみを入れる。ともあれ、これで全員揃ったわけだけれど、一つ問題があった。
「で、悠人はずっと何してんの?」
悠人はさっきから一人でその場にしゃがみ込んで、じっと地面を見ている。おそらく俺がここに到着したことも気づいていないんじゃないか。まったく何やってんだ、蟻の行列でも観察しているのだろうか。
俺は悠人の背中から覗き込むようにして声を掛ける。
ようやく顔を上げた悠人は、両耳に人差し指を突っ込んでへらりと笑っていた。
「あ、律もやってみる?」
いや、やる意味が分かんねえんだけど。
「もしかして耳に指を入れたら涼しくなるとか?」
「なるわけないだろ」
俺がすかさず口を挟むと、陽菜は「やってみなきゃ分かんないじゃん!」と言って自ら両耳に指を入れた。それを見て翔平も面白そう!と続いて、俺と湊人がやれやれといった表情で顔を見合わせる。いつものことだ。
こうなったら、俺らもやらないわけにはいかないわけで。
かくして、高校生五人が炎天下で両耳に指を突っ込んでいる、というおかしな光景が出来上がった。
「耳に指を入れると、低い音がずっと聞こえてこない?」
悠人が俺たちの顔を見回しながら尋ねる。
確かにそう言われると、ガーというかゴーという低い音が聞こえる気がする。
ずっと聞いていると何だか不思議な気分だ。
ここがどこなのか忘れるような、不思議な感覚。話し声もセミの鳴き声もすべてが遠く、この音だけがはっきりと耳に聞こえている。
「これって、指先の毛細血管の流れる音なんだって」
「えっ、それ本当?」
何でもすぐに信じる陽菜が目をパチクリさせる。
「俺は筋肉が収縮する音だって聞いたことあるけど」
湊人がそう言うと「あれ、そうだっけ?」と悠人が首を傾げた。
結局どっちなんだよ。まぁ、肝心なところのツメが甘いのは悠人らしいといえばらしいけれど。
「でも、自分が生きてるから聞こえる音だよね?だったらどっちでも正解なんだよ、きっと」
「強引にまとめたな、お前」
陽菜の言葉に笑いながら、俺はもう一度耳を澄ませる。
変わらずに聞こえる音が実際に何の音なのか、俺には分からない。
ただ陽菜のいった通り、生きているからこそ聞こえる音であって、自分が今確かにここに生きているという証であって。それで十分なのかもしれないと思った。
******
その日の夕暮れ。
家に帰って何気なく庭先に出てみると、縁側に腰掛けるジイちゃんの背中が見えた。もしかして1日中あそこでミケが来るのを待っていたんだろうか。
そんなことを考えながらゆっくり近づくと、今日初めてジイちゃんが俺の方に振り向いた。
「おぉ律、帰ってきたか。ほれ、そこを見てみろ」
振り向いたジイちゃんが、笑顔で俺を急かすように手招きする。
それと同時に、ニャア と聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。
「あ、ミケ・・・・と・・?」
ジイちゃんの足元にはミケと、ミケと同じ毛色と模様を持った子猫が3匹、身を寄せ合っていた。母猫のミルクを飲んで安心したのか、子猫たちは丸くなって穏やかに眠っている。
それでしばらく姿が見せなかったのか。
俺は子猫を1匹静かに抱き上げて、そっと顔を寄せた。
小さいけれど確かな鼓動の音が聞こえる。これも、生きている証の音だ。
抱いた子猫から伝わる少し高い体温は
あのとき頬を掠めた、幼なじみの指先の熱に似ている。
夕焼けでオレンジ色に染まる小さな体を見ながら、そんなことを思った。
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