過去への救助

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 吉雄の夏休み最終週。  仁美たちは実家に、数日泊まった。父と母の様子を見に行くためもあった。母は夫と吉雄の問いかけに時間はかかるものの、笑顔を見せていた。しかし返事はしないので、会話の意味は分かっていない。    雨天の日が続きショッピングモールくらいしか行けず、ようやく晴天の日が訪れた。  仁美達は友人家族と一緒に、川へ遊びに行った。  モールで買ったおもちゃで暇つぶしをしていた吉雄は、久しぶりの外遊びに興奮していた。    友人がテントを広げて、子供達と川沿いで遊び始める。その後、子供らは近い年齢ごとに釣りをしたり、川虫を探したりした。  吉雄が溺れたのは、川に流されたサンダルを取りに行ったからだった。  少し離れたところで仁美は息子を見ていたが、あっという間に吉雄の姿は水中へ消えた。慌てて、吉雄のいた辺りまで駆ける。   すると水底の岩苔で、仁美の足が滑った。  さっきまで胸くらいの高さだった水面が一挙に上がる。川はあっさりと全身を飲みこむ。足を底につけようと必死になったが、つかずに体が落ちていく。両手で水をかいてもかいても、望む方向に進まない。  何とか吉雄の体に手をかけることができた。だが、息が苦しい・・・・・・吉雄も苦しいのであれば、もはやこのまま諦めた方が楽になるのではないか。  混乱した頭に様々な思いが去来(きょらい)する。 「ふざけるな」  こんな不意打ちの不運に押しつぶされてたまるか。  両手で吉雄の(もも)を掴んで持ち上げる。なんとか水面上に、彼の顔を出すことに成功した。吉雄が水を吐き出した感触が手に伝わってきた。  しかし、気が遠くなっていく。    川底に仁美はいた。  着ていたはずの水着ではなく、半袖Tシャツとスカート姿だ。  周囲は黒く塗りつぶされたキャンバスのようで、何も見えない。(いかり)の鎖が巻き付けられているように体が重く、ぴくりとも四肢は動かない。  ――いつもの悪夢の続きだ。  ひたすら凍えていく。  体に寒さが染みこむ。  このままでは死ぬとぼんやり思っていたら、誰かの手の温もりを感じた。すると重かった鎖がほどけていく。自由になった顔を動かし、自身の両手を確認する。腕は短く、手のひらは小さい。  ああ、これは【幼少期の私】だ。  仁美は懸命に両手で水中を()いて、浮上していった。青くかがやく水面に向かって。  気が付くと、そこは病院のベッドだった。  仁美の目に、蛍光灯の淡い光が飛び込んでくる。『助かった』と安堵した途端に、体が震えだす。  傍らに夫と吉雄がいた。息子が仁美の手を握っている。  吉雄は水面に顔を出した後、必死で声を絞り出して、父を呼んだそうだ。  夫は浮き輪を吉雄に渡した。気絶している私を懸命に救い上げて、一緒に浮いていた。そして、助けを呼ぶ声を聞いた友人が救命ロープを投げてくれ、事なきを得たということらしい。  仁美は母との事故を改めて考えてみた。  人生なんて綱渡りだ。ちょっとした不運や偶然が風となり、綱から足を踏み外して台無しとなる。  皆も体勢を崩しそうになりながらも、堪えているのだろう。  虐待する親と私に大きな差はない。私はうまく誤魔化しながら、日々を乗り切っているのだ。あの時の母の心境は永遠に分からない。だが私を育て続けてくれた。その事実だけで十分ではないか・・・・・・  不安そうな表情をしていた吉雄が、生気の戻った母の目を見て、抱きついてきた。  暖かい。  仁美は吉雄を力強く、抱きしめ返した。  【幼少期の自分】を救助したことで、ようやくあの長い夏が終わった。  そう、仁美は感じた。
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