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事件が起きたのは、仁美が幼稚園児だった時である。
夏休み最終日に、家族三人で海へ行くことになった。
実家から一番近い海水浴場は、車で一時間程。
空気が停滞する暑苦しいマンションを離れて、海で涼めることに仁美は上機嫌だった。
車内では父が子供番組のCDを流してくれ、合唱などしていたという。到着後は皆で海辺のごつごつした岩礁を歩き、磯蟹などを探していた。あっという間に時間が過ぎていった。
「よし、海に入ろう」
父が言い、三人で海に飛び込む。
仁美は浮き輪を使って、ひたすら浮かんでいた。見上げる空はどこまでも広い。均一な淡い青色が、はるかに続いていた。いつまでも眺めていられる。
しかし飽きっぽい父はすぐに海からあがった。
高校教師をしていた父は休日も、サッカー部顧問としての活動や合宿等で忙しかった。そのため仁美と遊ぶことは稀だった。
「まだ出るな、もっと一緒に泳げ」
去りゆく父の背中に、仁美はそう文句を言った覚えがある。
背を向けながら手を振る父が、視界から消えた。
その時、母が浮き輪を仁美から勢いよく取り上げて、背中に腕を回してきた。そのまま、水中に潜る。
父の代わりに遊んでくれるのだと仁美は初め喜んでいたが、母はなかなか解放してくれない。もがきながら水中で見た母の顔は、口を一文字にして無表情だった。
様子がおかしいと察した仁美は、あらん限りの力で手足をばたつかせた。
すると、母の腹部に足のかかとが強く当たった。きつく締められた腕がほどけて、仁美は水面から顔を出す。
すぐに母も浮かんできたが、「冗談だった」とも言わない。使っていた浮き輪が親子から離れて、ぽつんと所在なく揺れている。
少しして父が様子を見に来た。ほどなく帰宅となったが、この件はその後、母との話題に上ることは無かった。
仕事人間の父。癇癪持ちの娘。
祖父母に娘の面倒を見てもらうこともない。
慌ただしく孤独な子育てで、母はノイローゼだったかもしれない。
――あれは、突発的な心中だったのではないだろうか。
仁美の心に、この出来事は大きな波を起こした。
時が過ぎてもそれは凪ぐことはなく、今でもふと出現して彼女を溺れさせようとした。
太陽がいつまでも沈まないような、重苦しい夏は続いていた。
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