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水中で必死に動かす両足が、底につかない。焦って水を飲む。手足の自由が奪われていく。見上げると水面は明るい。
風が強いのか。蜘蛛の巣みたいな光の線が、妖美に揺らめいている。
動かない体が下降していくにつれて、闇がグラデーションを強めた。視界が黒く染められていく。そして、大塚仁美は気絶した。
そんな悪夢で最近は目が覚める。
四歳児を育てているストレスだろうか。一人息子の吉雄の育児に関して、仁美はもはや限界を感じるようになっていた。
一歳の時は同い年の子に比べると、言葉を話すのが遅く心配だった。早く話せるようになって、何が不満なのか教えて欲しかった。しかし今や吉雄は、食事中にも延々と仁美に話しかける。幼稚園の友人に嘘のようにペラペラと喋っている。
だが気に入らないことがあって理由を説明できない場合。
長時間、泣いた。
こちらが理屈を説明しても、納得できないのだろう。
一度など三時間も泣き続けたことがある。
夫が夕食後に吉雄を風呂に入る際、上着を脱がせた。後から推測すると、本人はズボンから脱ぎたかったのだろう。それだけのことで、火が付いたように泣き始めた。
床に寝転び、かかとを幾度も床に打ちつける。夫は吉雄が落ち着くのを辛抱強く待ったが、いつまでも泣き止まない。息子を抱きかかえて、ウロウロと家の中を歩いて一時間。
食器洗いを終えた仁美が、力尽きた夫と交代して二時間なだめすかす。
最後は二人で絶叫して、仁美も泣き出した。普段の吉雄は可愛くて仕方がないのだが、こんな時は赤ん坊に戻ってくれとすら思う。
加えて、苦労して作った食事を小食の為、食べない。
生まれついての浅い睡眠。それに付き合って、こちらも寝不足になる。様々な悩みがあった。
近頃では、新聞やネットニュースで幼児の虐待死を見聞きすると、仁美は目をそらした。多少なりとも加害者の気持ちが分かってしまうからだ。自分がいつ実行する側になってもおかしくはない。
しかし悪夢の内容からすると、心当たりはもう一つあった。
昨年、認知症になった郷里の母だ。久しぶりの父からの電話はこうだった。
「仁美か。父さんだ。母さんが脳梗塞になった。十日間ほど医療センターに入院する」
近くに住む弟が週末に実家へ行った時、母の呂律が回らないことに気が付いて、慌てて救急車を呼んだという。
何故すぐに気が付かなかったのかと、仁美は父を責めた。脳梗塞で後遺症を残さないためには、発症後の四時間以内に血栓溶解剤を注射しないといけない。丸一日過ぎていた母は、身体機能に障害は残らなかったものの認知症となり、満足な受け答えができない人となった。
仁美は九州行きの飛行機で実家へ飛んだ。父と弟と今後の対応を話し合った。
役所から介護認定の申請書をもらい、主治医に記入してもらう。ケアマネージャーを付け、現状の相談。要介護レベルによる市の補助内容も調べた。
父は自分で母の世話をしたいと言ったため、今も実家で二人で暮らしている。仁美は慌ただしく様々な処理を終えて、帰路の飛行機に搭乗した。
その際に、ふと思った。
母に『夏の終わりに、海で私を殺そうとしたのか』を聞きそびれた。
しかも母が認知症になった今、仁美が今後、真相を知ることは難しいだろう。
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