第三章

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 男は一人のようだった。大人しくしておいたおかげか、ただの非力な子供と認識されているらしい。これまで必死に堪えてきた甲斐があったというものだ。  一瞬、蓮華の双眸が鋭利に細められる。 「司祭様に様子を見てくるよう指示されたんだ。良かったなぁ、随分あの方のお気に召したようだぜ?」 「要はそれだけ?」 「ああ、俺の役目はそれだけだ。できれば洗浄も担当してやりたかったがなぁ。体の隅から隅まで洗ってやるぜぇ?」  その顔が嫌らしいく歪むのに、蓮華は胸の内が焼けるように熱くなった。一度小さく息を吐き出す。  そして次には、少年とは思えないほど妖艶な笑みを浮かべていた。 「いいなそれ、ぜひお願いしたいな」  甘えるような声を出し、誘うように剥き出しの足に手を這わせる。背後で海斗が息を呑むのが聞こえた。簡素な布から見える白皙の美しい肌に、目の前の男がごくりと唾を飲む。 「……それは俺の管轄じゃない。今、担当のやつを呼んで…」 「あんたがいい」  はっきりを蓮華が告げる。  そう、お前がいい。お前じゃなきゃ意味がない。  射抜くような眼差しに吸い込まれるように、男が一歩前に出た。  繋がれた鎖の長さでは、まだ距離がある。まだ届かない。 「別に悪いことをするわけじゃない。あんたはただ、仕事をしているだけさ」 「そう、だな…。仕事を…。ただ、仕事をするだけ…」  自分に言い聞かせるように呟きながら、一歩、また一歩と近づいて来る。  男が間合いに入った瞬間、蓮華は動いた。  相手が反応するよりも先に、足に繋がった鎖を男の首に巻き付ける。 「ぐぁ…ッ!?」  男が首を締められ転倒した。暴れ狂う中、蓮華は渾身の力で後ろに鎖を引く。胸の奥に巣くう熱が、憎しみと共に膨れ上がる。  殺してやる──。 「蓮華ッ!」  その声に、はっと我に返った。  反射的に鎖から手を離すと、昏倒した男がその場に崩れ落ちる。  まだ息のある相手を、蓮華は呆然と見下ろす。  俺は、今…。 「蓮華!」 「…っ」  両頬を手で挟まれる。顔を上げた先、真っすぐにこちらを見つめる陸翔がいた。  目が合った瞬間、強張っていた体が弛緩する。霧のかかっていた意識が晴れる。 「しっかりしろ」 「……来るのが遅い」 「うっせ」  何故か胸の内が温かくなる。心地のいい熱は、気を抜くと何かが溢れ出してしまいそうだった。 「おい、蓮華…」  唖然とした様子の海斗に声をかけられる。周りの子供たちもたった今起こった出来事に動揺しているようだった。  その不安気な眼差しが、乱れていた心を制した。  己の役目、いま優先すべきは子供たちを保護すること。  動じず、冷静に、今すべきことを──。 「陸翔、そいつの腰の鍵」 「へいへい」  昏倒している男の腰には鍵の束がかかっていた。部屋に入って来た時からジャラジャラとうるさく鳴らしていたのだ。完全にこちらを舐めていると分かる不用心さである。  手当たり次第に足枷に差し込んでいけば、容易に拘束を解けた。自由になった足で倒れ伏す男に歩み寄り、しゃがみこんでその体を漁る。そうして目当てのものを見つけると陸翔へ投げて寄越した。 「ぅおっ…なに拳銃?俺はこんなの必要ねぇけど」 「ただの小道具だ。お前には一芝居してもらう」 「はぁ?」 「あとこの男、俺がいたベッドに放り込んどけ」  説明もおざなりに命令する蓮華に、陸翔は遠い目をして「なんかこの感じ懐かしく感じる…」と男の服を掴み引きずっていく。その間蓮華はベッドに座る海斗の元へ向かい、静かに告げた。 「ここにいる全員、必ず開放する。だから今はここで騒がず待機していてくれ」 「……お前、何者なんだ?」  何者、か。  昔から自分の居場所など不確かなままだった。蓮華。そう”彼”が付けてくれた名以外、自分を示すものなどない。 「おーい蓮華、おっさん運んどいたぜ。ったく、無駄に贅肉がついてて重いのなんの」  ブツブツと文句を垂れる陸翔に一度目をやり、再び海斗へ視線を戻す。こちらを不思議そうに見上げる少年に、蓮華は笑いかけた。 「別に、大した肩書も立場もない、ただのスラムのガキだよ」
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