文化猫

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 朗らかに笑う大山さんとたわいも無い話をしていると、カウンターの向こう側から紅茶が到着した。注がれた琥珀色(こはくいろ)の紅茶の隣には少量のミルクが一緒に置かれていた。口をつけると苦味の後にやってくる優しい甘みに舌が喜んだ。素直に美味しかった。 「緊張してきた……」 「……はい、これ」  緊張を緩和する為に頬を粘土の様に捏ねているとカウンターから大山さんの手が伸ばされて、僕の掌にお菓子を持たせてきた。 「猫用のおやつだよ。ちょっと君で遊びすぎたから、お詫びにね」 「大山さん……」  申し訳無さそうな顔で僕を気遣ってくれた事に、今まで地を這っていた好感度が回復し始める。改めて覚悟は決まった。僕は優しくおやつをテーブルに置くと、決戦の地に向かう。 「あれ、おやつは……?」 「真の猫好きはおやつに頼らず、己の力で猫を撫でるんです。気遣いだけ受け取っときます!」 「えぇ……」  数匹の猫が各々の場所で(くつろ)いでいる。周りにはクッションや猫をあやす為の道具が置かれている。暖色系の優しい照明が天井から照らしてくれていて、猫の位置の把握がしやすい。  僕は正座で猫が来るのを待つ。瞬きを抑え、猫なで声で相手の警戒心を溶かす。香水など強い匂いがする物は身につけていない。後は気紛れな猫達に委ねる。人事を尽くして天命を待つだけだ。 「どうだった?」  約一時間後、僕は完敗した。  普通に無視されて普通に制限時間がやって来た。素直におやつを持っていけば良かったと女々しく思う気持ちを噛み殺し、大山さんの前ではそれでも満足出来たと言った。客を気遣わせるのはあまり良くないし、ゴロゴロしてる姿を見るだけでも十分来る価値はあった。 「やっぱり僕には、猫愛が足りないんだなあ」 「……君さ、やっぱりアルバイトしに来なよ」  会計を済まそうと財布から小銭を出そうとすると、レジの向こう側から彼女が真剣な眼差しで勧誘してきた。 「最近ね、都合悪く従業員が辞めちゃって猫の手も猫に嫌われてる人も借りたい状況なんだよねー」  困り眉をして見つめてくる大山さんに素っ気なく対応しても、純粋な気持ちで勧誘してくれているのが表情と言葉から容易に読み解けて苦しくなる。それと同時に、初対面の一顧客に過ぎない僕をどうしてそこまで熱烈にスカウトするのか疑問があった。 「寝不足だから口が滑っちゃうけど、今入ると給料一割増しの猫の世話係に任命してもいいね」  決して給料や猫の世話係に心奪われた訳では無いが、やり甲斐もあるだろうし丁度求めていた自己研鑽に繋がるし良い事づくめなのは分かった。  三十秒間、レジ会計と真反対側にいる猫達の顔を観察して、可愛い鳴き声とふにゃけた笑顔に鼓膜と網膜をやられた。   鉄は熱いうちに打て。  猫は機会がある内に撫でとけ。  偉大な先人の言葉に倣って決意を固めた。 「その、猫を撫でられる様になるまでなら……」 「本当!? ちょろっ!」  まさか猫の身近で働ける機会があるとは思わなかったが、こんな勧誘も何かの縁だろう。少しの不安と高揚感に浸りながら、ちょろいと言われた事に文句を言った。大山さんは終始楽しそうだった。
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