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安アパートの薄い壁。まるで外にいるみたいに、みーん、みーん……と虫の声に囲まれながら眠りにつこうとした。
あの日も蝉が鳴いていた。
朔。
なんの疑いもなく、朔との将来を思い描いていた純粋な日々。
思い出せば出そうとするほど朔の顔はぼやけて曖昧になり、アニメ映画さながらにドラマチックな作画になり、恐らく本人とは似ても似つかないイケメンと化している。
はじめてのホワイトデー。朔がお返しを用意するのを忘れていたからと、彼が愛用していた腕時計をその場で外して寄越してくれたとき、どんな芸能人よりもカッコよく見えたっけ。
あの時計、どこにやったかな。
ベッドから身を起こして雑にタオルケットを床に投げ、私は押し入れの戸を引いた。
たしか、この辺に。
実家を引き払ったときに学生時代の持ち物はほとんど捨ててしまったが、どうしても手放しきれなかった物を詰め込んだ段ボール。
――ない。
あれだけ大事にしていたので、まさか捨ててはいないはずだけど。
もしかしたら妹の物と混ざったのだろうか。母が亡くなった直後は慌ただしく片付けたから、可能性はある。
わたしは充電ケーブルからスマホを抜いて、旅行アプリのアイコンを押した。
飛行機と宿のパック。
期間は一泊二日でじゅうぶんだ。
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