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妹をかわいがる気持ちなど微塵も持ち合わせていないくせ、柄にもない配慮はすべきでなかったと後悔したのは、夜、小さなイタリアンレストランに現れた朔を目にした瞬間だ。
――朔。
藤峰朔。
わたしの彼氏だった人。
仕事帰りのよれたスーツ姿。
湿度でうねったくせっ毛。
遅刻したときの会釈の角度。
笑うと下がる目尻の、なんて愛しいこと。
美化なんてとんでもない……朔は、朔だ。わたしの好きだったひとだ。
まずい。
過去のわたしの、とうに押し込めたはずの『好き』がみるみる解凍されて、湯気立ちはじめる。
「遅れてゴメン。直帰のつもりが事務所に忘れ物しちゃってさ」
「もー、しっかりしてよね」
もー、しっかりしてよね。
わたしもしょっちゅう、そう言って朔を咎めたっけ。さすがは姉妹。
胸は容赦なく締め付けられるが、無邪気に痛がれるほど純粋でもない。
「櫻子、久しぶり」
「あー……うん。いつぶりだっけ?」
朔は困った顔で、眉間を優しく寄せた。
いつぶりって、別れて以来に決まっているのだ。莫迦な質問をしてしまった。
「もう何か頼んだ?」
「前菜だけ。ワイン飲む?」
「明日も仕事だしなぁ。櫻子は?」
恋人同士が――元彼と妹が――揃ってわたしを見た。こちらに差し出されるワインメニューは死の宣告にも思えた。
なんだって、わたしはそちら側にいないのだ。
まるで此岸と彼岸。
果てなく隔たるふたつの陸地は、渡し銭をいくら払ったとて乗せてくれる舟もない。
「……赤。飲もうかな」
朔の唇が、少し開いて、でもなにも言わずに、「どうする?」と椿に尋ねる様を、絶望的に眺めるしかなかった。
もしかしたら「やっぱり。櫻子は赤だと思った」くらい言ってくれるかと期待したのに。
朔と椿がお互いの名を呼び合うのを慎重に避けるのはわたしへの気遣いであって、けしてふたりの絆を見せつける意図ではないとわかってはいても。
朔はわたしの恋人だったのだ。
あんたも当然知っているじゃないの。
それなのに、なぜ、この男じゃないといけなかったの?
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