最後のセミが死んだ時

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 半分だけ開けた窓から夜風が入り込む。まだ生ぬるい、だけど確実に涼しくなった夜風が。  リーンリンと、鈴虫の鳴く声がする。 「……セミ、鳴かなくなったなぁ」 「鳴いてるわよ。今日がたまたま、涼しいだけ」 「そうかあ?」 「そうよ。あいつら意外としぶといの。だから、明日も明後日も、きっと鳴くわ」 「……俺、そろそろ帰るわ」 「……そう、また明日」 「じゃあな」 「ええ」  見送りはしなかった。それでいいと思った。  空気の読めないスマホが、陽気な通知音を響かせる。  ため息混じりに電話に出ると、アヤカのバカっぽい笑い声が鼓膜を震わせた。 「あ、やっと出たぁ! もう、既読無視すんなしぃ。今夜行くでしょ、ひぐらし橋の肝試し!」 「行かない。この間も言ったでしょ」 「な~んでよ~! 女子の人数一人足んないの、オネガイ!」 「それもうほぼ合コンでしょ。幽霊関係ないじゃん」 「え、なに、本当に幽霊が出るとか思っちゃってる? かわいい~」 「アヤカ」 「うっそ、からかってゴメン! ゆるちて? でも、ひぐらし橋は本当に出るって噂だよ~。ほら、五年くらい前にあったじゃん、中学生男子の飛び降り自殺!」  心臓がきゅっと締め付けられる。  窓の外では鈴虫だけが鳴いている。 「夏になると出るらしいよ~。川に引きずりおろそうとする男の子の霊が! ……って、おーい、聞いてる?」 「……男の子は自殺じゃなくて、劣化した手すりから落ちそうになった彼女を助けようとして亡くなったの」 「げ、そうなんだ。でもまあ、とにかく! 本当に幽霊に会えちゃうかもよ?」 「会えないよ。もう、帰ったから」 「え、なに、どういう––––」  アヤカの言葉を遮るように電話を切った。  机の上には私が飲み干したグラスのほかに、手の付けていないグラスが一つ。  ––––めっちゃ高い茶葉で入れたキンキンのレモンティーが飲みたい!  去年交わした約束…… ちゃんと用意したんだから、飲んでいきなさいよ。  彼は、最初のセミが鳴いた頃に現れて、最後のセミが鳴かなくなると帰っていく。  そうして毎年、私に一つの宿題を残す。  だから、死ぬなよ  そう言っているみたいに。  恨んでくれたらよかった。あの噂話の通りに、本当に川に引きずりおろしてくれたらよかった。でも、彼はただ当然のように現れて、そしてふらっと去っていく。  呪いの言葉も、励ましの言葉もかけないで。 「ほんと、自分勝手なヤツ」  結露でびしょびしょになったグラスを掴むと、それを一気に飲み干した。  Тシャツの裾で手を拭って、本棚の奥から埃をかぶった漫画本を取り出す。彼が大好きだった漫画、売るのも忍びないからと譲り受けた遺品。  全部で、百八巻。 「……やってやろうじゃん」  どうか来年のセミは、しぶとく生きてくれますように。  鈴虫の鳴き声に混じって、少年の笑い声が聞こえた気がした。 (了)  
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