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十
都内のテレビ局での収録を終えて、スタジオから楽屋に戻る時だった。
「ユキナ、この後時間ある?」
事務所は異なるのだが、バラエティ番組で時々一緒になり、最近親しく話をするようになった先輩タレントに呼び止められた。
「あ、はい。一応空いてますけど」
「ならさ、これから一杯行こうよ、良い店知ってるんだ」
その女の先輩とは何度か酒の席で一緒になったことがあった。たいていは番組の打ち上げで、他のタレントやスタッフも一緒だった。
「先輩、他に誰か?」
「いいや、二人だけだよ。ちょっと話があってさ」
男の人と二人っきりというわけでもないし、たまにはよいかと思い応じることにした。楽屋で着替えを済ませ、局の裏口の通路まで降りると、その先輩が待っていた。ユキナが促されるまま付いて行くと、五分ほど歩いた路地裏に洒落たイタリアンの店があった。
「料理研究家のアンタの口に合うかどうかわかんないけど」
二人でビールで乾杯し、ワインを数杯飲んだ。
「先輩、アタシに話って何ですか?」
「ユキナ、実はさ・・・・・・誰にも言わないでね」
ハンドバッグの中からチューインガムのようなものを出してテーブルの上に置いた。
「先輩、何ですか、それ?」
「ちょっと良い気分になれるガムだよ。私も先輩から頼まれて皆に声かけてんのよ。一つ7枚入りで三千円。一つ売れば五十パーセントの千五百円が売った人にバックされる仕組み」
「なんか・・・・・・ねずみ講みたいな話ですね。それにガム一つに三千円なんて」
「そう思うでしょ。私も最初はそう思った。でも、このガムは麻薬みたいな違法なものじゃないし、気分が落ち込んだ時に噛めば、すぐにハッピーになれるんだよ。三千円なんて安い、安い」
ユキナがガムを手に取って見つめ、眉間に皺を寄せた。
「アタシはやっぱいいや。ガム噛むと味覚変わっちゃうから」
「あら、付き合い悪いのね。芸人の若い子たちなんか皆やってるけどね」
ユキナが苦笑した。
「あなた、それって、彼氏が刑事だからってこと?」
「そんな、まさか」
「業界でもちょっとした噂よ、確か何年か前に週刊誌に抜かれたことあったわよね。気を付けた方がいいわよ。あなたがチクったらどうなるかわかっているわよね」
「おお、怖っ、先輩酔ってます? 心配しなくて大丈夫ですよ。アタシ、彼氏なんていないですし、週刊誌に撮られたやつ、あれは学生時代のダチですから」
「そう、ならいいんだけど」
二人が席を立った。ユキナが前を歩く先輩の背に舌を出した。そのまま店の前で別れたが、どうにも気持ちが落ち着かない。地下鉄の駅に向かう途中でショウに電話した。五回コールして出なければ、諦めて一人で飲みなおして帰るつもりだった。四回コールして、ほぼ諦めかけた時、ショウが出た。
「おっ、いるじゃん。今日は夜勤じゃなかったのか?」
「いや、今部屋にいる。それより、何か嫌なことでもあったのか?」
胸に熱いものが込み上げた。
「な、何でわかるんだよ?」
「わかるさ。何年一緒にいると思ってんだ」
「ちぇ、せっかくお前を呼び出して悪態ついてやろうと思ったのによ、アホらしくなってきた。今日は日勤だったのかよ?」
「ああ、今、巷に出回っている薬物の捜査をしてる。しばらくは真っ当な公務員並みだ」
「ふうん、それってもしかしてチューインガムみたいなやつだったりして?」
「何だ、お前も知っているのか?」
先輩の顔が思い浮かんだ。
「ま、まあな、噂で聞いただけだけど」
「芸能界にも広まっているって噂だ。一応、気を付けるんだな」
「あ、ああ、わかってる」
ユキナの声が急に小さくなった。
「ところでお前、俺に何か話があったんだろう?」
「別にたいしたことじゃねえよ」
鼓動が耳元で鳴っていた。ショウについた小さな嘘。昔の自分はこんなだったろうか? 自分らしくない。けれど、このことをショウに話せば、知らないでは済まされなくなる。自分だけならいいが、芸能界にも、世間的にも影響が出るかもしれない。
「悪かったな、こんな夜遅くに電話して」
「いいさ、それより、気を付けて帰れよ」
ショウの声が優し過ぎて、胸が痛んだ。
「うん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
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