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十一
潮騒が聞こえる。荒々しいものではなく、砂浜に染みて消えるような波音。島の小さな漁村は、岩場と岩場の間に挟まれた砂浜に面し、その外れの寂びれた小屋にコバヤシが住んでいた。村の住人からは、売れない無名の画家だと思われている。孫小陽以外の者が小屋を訪れることはない。村の誰もが気味悪がって、通りですれ違っても声をかける者すらない。髪が伸び、無精髭をはやし、目つきがトロンとした姿を見れば、誰も目を合わせないようにするのが自然だろう。村から追い出されないのは、単に月に一度訪れる孫小陽がいるからに他ならない。この村の男たちの中にも、洞窟でクスリをふかす者はいる。そんな者たちからも蔑まされていた。
昼近くになって目が覚めた。昨夜から描きかけの絵に向かうが、クスリが切れかけているせいか眩暈がする。腹は減らない。頬がこけて、目の前が暗くなり始めてから何かを口にする。数日食べずとも、クスリと水さえあれば生きて行ける。二十代の頃にこの村に来て、二十五年が経った。五十代になった身体は骨と皮だけで、歩くことすらままならない。しかし、不思議なもので、クスリを吸いに洞窟へ向かう時だけは、身体の自由がきいた。孫小陽のアトリエにもしばらく行っていない。そろそろ孫小陽が来る頃だった。
孫小陽と出会ったのは、新宿二丁目のゲイバーだった。当時はまだ大学を出たばかりで、新宿二丁目のゲイバーもそう多くはなかった。美術大学は出たものの、一般の会社で働く能力も気力もなく、また社会的にカミングアウトが許されるような時代ではなかった。画家として生計を立てるのは無理でも、美術に関わる仕事に就きたいと漠然と思いながら新宿二丁目でアルバイトをしていた。そこで偶然出会ったのが孫小陽だった。彼が美術品などを輸入している会社を経営していると知り、意気投合した。そしてその日のうちに肉体関係を持った。初めの頃は孫小陽の仕事を手伝った。海外で仕入れた美術品を国内の画商に流したり、出物があれば買って、海外のオークションにかけたりもした。しかし、絵を描くことから離れ、次第に心が鬱々とし始めた。そんな時、孫小陽から贋作を描いてみないかと声を掛けられたのだった。初めは断った。贋作といういかがわしい響きに心が傷ついた。ニセモノを描くために生きてきたわけではない。孫小陽はそれを知ってか、精神を安定させるクスリをくれた。そのクスリを飲むと、急に気分が良くなって、自分が贋作を描くことへの罪悪感が薄れた。そして、自分が描いた贋作が、驚くほど高額で海外のコレクターの手に渡ったと知らされた時、暗闇の中から突き抜けてくる光を見た。コバヤシが贋作絵師として歩み始めた瞬間だった。以来二十数年、孫小陽と共に歩んで来た。ビジネス、そして心と体のパートナーとして。それが、いつしかクスリと引き換えに贋作を描くようになってしまった。何度となくクスリを断とうとしたが、抗えなかった。
その当時、孫小陽のビジネスを支えている男がもう一人いた。元はと言えば、孫小陽が金を出し、その男が経営する小さな不動産屋が歌舞伎町に土地やビルを買い始めたのだと後で知った。男の名はヤマモトギンジ。北陽会系の三次団体の構成員だったが、商才があり、独立して歌舞伎町で不動産屋を営んでいた。当時の歌舞伎町は北陽会の他、国内の暴力団組織、台湾の黒社会が幅をきかせており、孫小陽が新たに歌舞伎町に進出することを拒んだという。そんな見ず知らずの中国人に事務所を貸したのがヤマモトギンジで、まだまだ資金不足で伸し上がれなかったヤマモトに金を融通したのが孫小陽だった。その後、ヤマモトは歌舞伎町に限らず、都内の至る所に土地やビルを買い漁った。孫小陽が台湾の郭正元と知り合ったのはその後の話で、実はヤマモトとの付き合いの方が長い。台湾の組織は、北陽会や他の海外勢力に押され、次第に規模を縮小し、横浜へと拠点を移したが、郭正元ら台湾の組織を歌舞伎町から追いやったのは、実はヤマモトギンジの手によるものだと後で知った。
扉の外に人の気配がした。孫小陽が来たようだ。
「ドウカネ、調子ハ?」
「よくない。クスリが切れかけてる」
「洞窟ニハ行カナイノカ?」
「言われんでも行く」
孫小陽が描きかけの絵を見つめる。
「気ガ進マンカ? ピカソハ」
「ああ、そうだな。それより、最期にもう一度だけ、あの日本人画家の絵を描かせてくれよ。あの白い月の絵がいい」
「ヨカロウ。今度アトリエニ行ッタ時、持ッテクルガヨイ」
孫小陽には、コバヤシがそれほど長くないことがわかっていた。
「あの絵は特別だ。以前にも同じものを描いたことがあるが、あの頃は俺もまだ若造で腕も未熟だった。今なら最高のものが描ける。もう一度だけでいい。あの白い月の絵を描いてみたい」
孫小陽が頷いた。
「食料ヲ持ッテキタ。冷蔵庫ニ入レテオクゾ」
「それより、早くクスリを食わせてくれよ」
「ココデハ、ダメダ」
コバヤシがチッと口を鳴らす。まるで反抗期の子供のような目で睨みつけた。クスリを与えれば大人しく素直に従うが、それも徐々に我慢できなくなる。そうやって中毒者の精神は崩壊して行く。毎日一緒に生活し、自分の目が行き届くのであれば、小屋で吸わせていたかもしれないが、そうでない以上、洞窟で金を払い、周囲の監視のもとでしかクスリを与えることできなかった。もし好き勝手にできる環境であったなら、コバヤシは必ず欲望に負けてクスリを食い散らかし、廃人となるか、死を選んでいただろう。彼をこのような人間にしてしまったことは後悔している。ただ、この男は遅かれ早かれ、麻薬への衝動に耐えられるような人間ではない。芸術家としての素晴らしい感性と、手先の器用さを持つ代わりに、社会の中で生きて行くことに不適合な人間。自分の生を食い潰すことでしか輝くことができない。そういう人間だった。
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