十四

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十四

 コバヤシが仰向けで天井を見つめているが、その瞳には何も映っていない。白目が黄色い脂のように染まり、白いゼラチン質の膜が覆っている。口が半開きになり、微かな呼吸音がする。死んだ魚を思わせた。 「少シ外ニ出テミナイカ?」  コバヤシが一瞬、瞳を揺らしたが、何も答えなかった。指先が震えている。クスリが切れかけていた。ブラッドは摂取した直後は体中に力がみなぎり、脳内はクリアになる。しかし、抜け始めると同時に不快となり、鬱々となる。クスリが切れる前に次のクスリを摂取できればよいが、そうでなければ、完全に抜け切るまで廃人のようになる。その急激な変化は確実に内臓と精神を蝕んだ。コバヤシが手を伸ばした。 「ドウシタ? 水カ?」  肘をついて体を起こすのを、孫小陽が背を抱きかかえて助けた。コバヤシがイーゼルの前の椅子に座り、キャンバスを見つめた。 「無理シテ描カナクテモヨイノダヨ、コバヤシ・・・・・・」  思えば二十五年前、あの頃はまだ東京新宿歌舞伎町のビルの地下でひっそりと贋作を描いていた。広州の組織に追われる身となり、コバヤシと共に台湾に身を寄せた。クスリには既に手を出していたが、身体も精神もまだ若々しく、芸術家の輝きを失ってはいなかった。この男を廃人のようにしてしまったのは自分のせいだと思っている。望むがままクスリを与えたのは、この男への愛情もあるが、芸術家への畏怖とでも言おうか、自分に欠けていた才能をこの男が満たしてくれる、そんな想いがあった。芸術家というものは厄介だなと思う。自分はいつの間にか描く方から観る方へ、そして画商となっていた。才能というものは残酷だ。努力とは関係のないところに咲いた花のようである。天才は99%の努力と1%の才能だと言う人がいる。しかし、それは所詮は凡人の慰めに過ぎない。そして、そんな才能に恵まれながら、コバヤシのように日の目を見ない男もいる。どちらが幸せかなど愚門ではあるが、クスリに溺れ、光に吸い寄せられる虫のように生きるのが、人間の幸せではないことは確かだろう。 「前に描いた日本人画家の油彩、あれはどうなった?」  コバヤシの意識は断片的に蘇るようだった。 「売レタヨ、驚ク程高ク売レタ。アレハ傑作ダッタ」 「誰が買った?」 「香港ノ実業家デ、日本人ト競リ合ッタソウダ」 「日本人で俺の油彩がわかる奴がいるのか?」  孫小陽が頷いた。 「実ハナ、今回ノオークションニ画家ノ息子ヲ同席サセタ」  コバヤシが首を気怠そうに回した。 「タザキノボルノ遺児ダ」 「組織に皆殺しにされたんじゃなかったのか?」 「私モソウ思ッテイタノダヨ。ダガ違ッタ」 「恨まれてるんじゃないのか?」  コバヤシが黄色い歯を覗かせた。 「ソレハワカラナイガ、自ラ組織ニ入ルコトヲ望ンダヨウダ」 「真作の存在を知ったらどうする?」 「ドウモセンヨ。彼ハ既ニ知ッテイルハズダ」 「話したのか? 二十五年前のこと」  孫小陽が首を横に振った。 「話シタトテ、信ジハスマイ」 「では、なぜ真作の存在を教えた?」 「何故ダロウ? 老イタセイカ、ヤタラト昔ノコトガ思イ出サレル。オ前ト出会ッタ新宿二丁目、目黒ノ画商、ソシテ歌舞伎町ノコトモ」 「やめてくれ、感傷にひたりたくない」  コバヤシが目を閉じた。 「目黒の画商が死んだと聞いた時、俺はまたお前が殺ったのかと思ったぜ」  孫小陽が苦笑した。 「随分ト嫌ワレタモノダナ」 「今度は俺に何を描かせるつもりだ?」  孫小陽が口を噤んだ。頬がこけ、額に深い皺が刻まれている。目は開いているのかもわからない。 「モウ、描カナクテヨイノダヨ」  コバヤシが顔を上げた。 「何故?」  その質問に孫小陽は答えなかった。
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