十八

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十八

 その頃、リュウは台南の小さな港に建ち並ぶ倉庫の一角に捕らわれていた。時折、船の汽笛が微かに耳に届く。汚れた油と湿った埃の臭いがする。両手両足をロープで縛られ、支柱に結ばれていた。人気の無い廃倉庫だからだろうか、幸い粘着テープで口は塞がれていなかった。何かを聞き出すつもりらしい。目を覚ました時、王志明の姿が無かった。別の場所に監禁されているに違いない。銃の柄で殴られた頭の傷が脈打つ。黒く固まった血のりが腕とシャツにこびりついていた。  一時間くらい経った頃だろうか、錆びた扉が開く音がして、男が一人近づいてきた。手にジェラルミンケースを下げていた。男は古いパイプイスを乱暴に広げると、跨ぐようにして座った。 「目ガ覚メタヨウダナ、キョウゴクシズカサンヨ」 「どうして俺の名前を知っている?」 「初メカラ知ッテイタ」 「誰に命令された?」  男は口を開かなかった。 「私と一緒にいた男はどうした?」 「サアナ、私ノボスハビジネスマンデシテネ、効率的ナ物ノ考エ方ヲスル」 「何?」 「ボスハ、オ前ダケニ用ガアルソウダ」 「お前の雇い主が誰か知らないが、さっさと用件を言え」 「マア、慌テルナ、オ前ニ聞イテオキタイコトガアル。オ前ラガ船デ離島ニ向カウ本当ノ理由ハ何ダ?」 「さあな、お前に話すつもりはない」  男の平手が飛んできた。リュウが血の混じった唾を吐く。 「クソが!」 「質問ヲ変エヨウ。上海デオ前タチト組ンデイタ日本人ハ何者ダ?」 「知らんな」 「嘘ヲツクナ。タザキショウトイウ日本ノ刑事ノコトダ」 「日本の警察に知り合いがいたらおかしいか?」 「台湾ノマフィアト日本ノ刑事ガ知リ合イダト?」 「ああ、たまたま船上で居合わせた」 「トボケルナ。アノ男ハ香港デ強引ニ船ニ乗リ込ンデ来ダンダゾ。ソレヲ、タマタマト言ウノカ? 笑ワセルナ。アノ男ハ何者ダ」 「そうか。お前らはあの時の奴らか。なぜ今更俺たちに関わる? まさか贋作を掴まされたことを逆恨みしているわけじゃないだろう?」  男が声を上げて笑った。 「マサカ、ボスニトッテハ、ソンナ金、ドウデモヨイコトダ」 「ではなぜ、俺たちのことを調べる?」 「サアナ、ソイツハボスニシカワカラナイ。俺ハオ前ニタザキショウノ正体ヲ聞キ出スヨウ命令サレテイルダケダ。オ前ガ離島ニ行ク理由ハ、ソノ日本人ニ会ウタメダロウ?」  リュウが首を横に振った。 「ハズレだな。あの男は既に日本に帰国している。残念だったな」 「マアイイ、ドウセ本当ノコトナド話スマイ。俺ハボスニ、ドンナ手ヲ使ッテモ構ワナイト言ワレテイル」  男がジェラルミンケースに手を伸ばした。 「コレガ何ダカワカルカ?」 「薬で自白させようとしても無駄だぜ」 「ドウカナ? 試シテミルカ?」  額に汗が浮いた。男は注射器に注射針を取り付け、薬瓶から透明な液体を吸いだした。上に向け、指に力を込めると、二、三滴漏れた液が空気に触れて赤く染まった。 「知ッテイルカ?」 「ああ、ブラッドだろう?」 「ソウダ、現在ハ我ガ社ガ製造シテイル」 「お前たちが?」 「香港カラ入ルブラッドノ全テハ我々∑(シグマ)社製ダ。オ前ラ台湾ノ安ッポイ薬トハ違ウ。化学的ナ精度ヲ高メタ極上品ナノダ。日本ニ広マルノモ時間ノ問題ダ」 「それがお前たちの目的ということか」 「オ前ノ身体デ試シテヤロウジャナイカ。スグニ意識ガ朦朧トシテ、オ前ハ俺ノ質問ニ答エルコトニナルダロウ」  男が近づいた。そして、肩の辺りに注射針を射した。鈍痛と共に、次第に体中が火照るのを感じた。目が回りだした。男が何かを話しかけているが、意識が遠のいた。無意識のうちに兄のことを話してしまうのが怖かった。タザキショウが自分の兄だと知れば、もはや無関係ではいられないだろう。過去に麻薬を試したことは無い。常習者が廃人となり、死んで行く姿を腐るほど見てきた。皆、自分だけは麻薬の餌食にならないと口にしていた奴ばかりだった。リュウの中に仄暗いものが立ち込めた。自分の中にある大切なものを奪われたような気がして、急に虚しさが顔を覗かせたのだった。
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