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十九
神保町交差点。岩波ホールの傍らに一台の黒いベンツがハザードランプを出していた。平日の昼時は近隣の会社のサラリーマンなどで人通りも多い。ショウがジーンズとラフなシャツで現れた。運転席側のバックミラーに向かって手を振ると、運転席から見覚えのある顔が覗いた。
「タザキさん、反対側に乗ってください」
「おう、元気そうじゃないか」
「はい、お陰様で。さあ、どうぞ」
アベヤスオが降りてきて、後部座席のドアを開ける。白い手袋が鮮やかだった。
「運転手が板についてきたじゃないか」
「車の運転は好きですから」
後部座席に乗り込むと、隣にセリザワカツミが座っていた。
「出せ」
車は左折して、靖国通りを新宿方面に向かった。セリザワカツミは広域指定暴力団北陽会の本部長補佐である。年齢はショウよりも二つ年上の三十五歳。この若さでの本部長補佐は異例の出世だった。ショウとは小さな暴力事件で知り合い、セリザワが仙台出身だったこともあり、時々情報をもらう関係になった。セリザワの性格は温厚で、よく組織の中で頭角を現せたものだと思うが、ヤクザな世界の中にあってその誠実さが、若頭のソウマケンイチの目に留まったのだという。ショウとは個人的に馬が合った。セリザワは直接的には北陽会本部長のタナベサダオの舎弟だが、タナベは武闘派を名乗る一方で、頭の切れるセリザワを、その後始末に利用してきた。いわゆる事務方の調整役のような存在だったが、方々で揉め事を起こすタナベに少し嫌気がさしていた。セリザワは組織内での人望もあり、元々東北人らしい忍耐強さと、無口で内に秘めるタイプだが、切れた時は手が付けられないという噂を耳にしたことがある。組織内では、北陽会の薬局と言われるムラナカリョウジとタナベサダオは犬猿の中で、その両方の間に位置するセリザワと会うことは、ショウにとっては好都合だった。
「刑事さんが、私に話って何です?」
「ムラナカのことなんだが」
セリザワが目を細める。
「タザキさん、いくら私とタザキさんの仲でも、組織の内部のことに関して、そうべらべらと話すわけにはいきませんぜ。それに私の兄貴分とムラナカは仲が良くない。ほとんど交流を持っていないくらいだ」
「そうだったな」
「私からの忠告ですが、ムラナカについて、あまり嗅ぎまわらない方がいい」
「何故だ? 俺に危害を及ぼすとでも?」
セリザワが頷いた。
「あの男なら、有り得ないことではない」
しばらく沈黙が続いた。日本武道館の脇にさしかかった時、セリザワが口を開いた。
「タザキさんの自宅は神保町の辺りで?」
「ああ、そうだが」
「我々に知られて怖いとは思わないんですかい?」
ショウがセリザワを見た。
「本気で言っているのか?」
「いいえ、私がムラナカにチクることはない。けれど、ムラナカが本気で探そうと思えばそれくらいのことは可能だと言ってるんです。タザキさんが私を信頼してくれて、自宅の近くまで送らせてもらえるのは光栄ですが、そんな心配もありましたもので」
「すまないな、気を遣わせて」
「不思議なもんです。仙台の片田舎のヤンキーだった自分が、今、皇居を横目に刑事さんとこうして話しているんですから」
「仙台では相当やんちゃだったのか?」
「どうですかね、意地を張っていただけかもしれません」
「どうして東京に?」
「たまたま、です。理由はありません。ところでタザキさんは?」
「俺は盛岡の高校を出てから、生き別れた弟を探しに上京した」
セリザワが口元に手をやった。
「弟さんとは?」
「再開したよ、台湾で」
「それはよかった」
「黒社会の人間になっていたがな」
セリザワがショウを見つめた。
「白蓮幇」
ショウが頷いた。
「ムラナカリョウジが香港のΣ(シグマ)からヤクを引っ張っていることは知ってる。そして、これまで巷に流れていたものが台湾ルート、つまり横浜の洪英春と、お前らのかつて仲間だったハダケンゴであったことも」
運転席でアベヤスオが聞き耳を立てていた。三年前のブラッド押収事件にアベヤスオが絡んでいた。荷の正体を知らされず、横浜港から大量のブラッドの原液を運ばされ、途中で逮捕されたのがアベヤスオとその兄貴分だったオオタタカシだった。この輸送中、オオタは荷に潜んでいたヒアリに刺されて死亡している。アベヤスオはこの事件で服役後、ショウの計らいでセリザワの運転手になっていた。
「ヤス、ちゃんと前を見て運転しろよ」
「はい、すんません」
「無理もない。こいつの兄貴分はあの事件で死んでいるんだ」
セリザワが外を見た。右手に防衛省の建物が見える。
「タザキさん、あんた、香港の奴らとハダが撃ち合った時、逃げるハダを追ったんだってな? それは本当のことなのか?」
「ああ、本当だ」
「ムラナカはあの件で、ハダを死ぬほど憎んでいる。気を付けた方がいい。もし、タザキさん、あんたがハダの逃亡に一枚噛んでいたとなれば、ムラナカも組織も黙って見過ごすわけにはいかねえ」
「俺が故意にハダを逃がしたとでも?」
「そうは言ってないが、状況を考えれば、疑われても文句は言えまい」
「確かにな、警察内部にも邪推する奴はいる」
「ただな、あの事件以降、組織がΣ(シグマ)と急接近したのは確かだ。詳しいことは言えんが、ハダが組織から破門され、シグマに追われる身になった。今まだ生きていると考える方が難しいと思うが」
「そうだな」
新宿の大ガードをくぐると、高層ビル群がそびえ立っていた。
「そこらへんで構わない」
ショウが車を降りた。山手線が高架を通過する音が遠くで響いていた。
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