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 リュウが孫小陽の噂を聞いたのは、台南から来た組織の若い衆からだった。その村にはある日本人が住んでいて、時々老人が会いに来るという話だった。組織の人間の殆どの者が孫小陽の顔を知らない。だからその老人がそうである確信はなかったが、若い衆の話では、台南の離島に知る人ぞ知る麻薬の村があると言う。その若い衆はマリンスポーツの帰りに立ち寄っただけだが、そこで日本人を見かけた。そして、その老人の噂を耳にした。  離島には台南まで高速鉄道で行き、そこから一時間船に乗る。空港は無い。本土の人間からもあまり知られておらず、訪れるのは、スキューバダイビングを楽しむ若者か、裏社会の人間だけだった。この島は北緯23.4度の北回帰線上にある。地球は北極と南極とを結ぶ軸に対して傾きを持っているが、そのせいで季節ごとに太陽を周回する軌道が変わる。その北限を北回帰線と呼び、南限を南回帰線という。つまり、北半球にある国からすれば北回帰線を越えて赤道に近づけば、そこは熱帯と区分される。台湾本島は北回帰線より北側が亜熱帯で、それを越えると熱帯となる。台南、高雄はすでに熱帯であり、自ずと植物や動物の生態も変わってくる。一日に何度かスコールにも見舞われるし、人々の生活文化や街並みまで変化する。 「台北とずいぶん違うものだな」 「ソリャソウダヨ、台南ハ台湾デ最モ歴史ノ旧イ街ダカラネ。日本デ言ウ京都ミタイナモノダヨ」 「お前、京都に行ったことあったのか?」 「アルヨ、大学時代、古イ寺ヤ仏像ヲ観ニ行ッタ」 「そうか、案外ミーハーなとこがあるんだな」 「アッ、リュウ。馬鹿ニシテイルナ? 他国ノ文化ニ触レルコトハ貴重ナ体験ナンダヨ、特ニ京都ノヨウナ街ハ」 「欧米人に限らず、京都の文化はそういうものか」  王志明が苦笑する。 「リュウ、オ前、本当ニ日本人カ?」 「まあ、そう言うな、鈍感な俺でも台南の景色が変わったことくらいわかる」  リュウが一瞬、ショウの顔を思い出した。上海で別れたきり往信不通だった。いや、むしろ自ら連絡を絶った。携帯電話の番号も変えた。 「台南ノ離島デ小老ヲ見タトイウ話ハ本当ナノカ?」 「さあな、デマかもしれん。観光するならお前じゃなくて、美玲を連れてくればよかった」 「アイツハダメダヨ、危険ナ場所ニハ連レテ行ケナイ」  美玲を上海に行かせたことを、まだ後悔しているのかもしれない。 「冗談だよ」 「トコロデ、リュウ、上海デ再開シタ兄貴トハドウシテル?」  リュウが首を横に振った。 「ドウシテ?」 「さあな、俺にもよくわからん」 「ソレハ、オ前ノ兄貴ガ日本ノ警察ダカラカ?」  リュウはしばらく車窓から外の景色を眺めた。確かに兄ショウは日本の警察組織の人間だ。台湾マフィアである自分が弟であることは公にはできない。けれどもショウという人間は、そういう類の人間ではないことは、上海で行動を共にしてよくわかった。 「オ前ノ兄貴ノコトハ、ケンゴカラ聞イタヨ。ソレニ白イ月ノ絵ノコトモ。ケンゴハ紅イ月ノ絵ヲ探シテイルラシイ。小老ガソレヲ知ッテイルトモ言ッテイタ」 「小老はあれ以来、俺たちの前から姿を消した。小老が紅月の行方を知っているかは知らないが、白月を持っていることは確かだ。会えば全てわかる」  赤レンガと白壁の家々が目につきはじめる。地中海の街並みとは家屋の造りが違うが、これで青い海が背景だったなら、そう見えなくもない。台南の街が近づいている。車内アナウンスが流れる。台湾高速鉄道は、日本の新幹線の技術が使われている。揺れも少なく快適だった。こんなところにも日本と台湾の親密さがうかがえる。これから安平という街まで行き、そこで一泊し。翌日船で目的の離島に向かう。  台南は台湾第四の大都市である。かつては政治の中心でもあり、古都の面影を残す寺院や城壁跡が点在する。駅の西側は旧城内、東側が市街地になっており、台南運河の西側が安平地区となる。安平老街とも呼ばれ、台南市の中でも最も歴史のある街だった。 「リュウ、腹減ラナイカ?」  気温は三十八度を超えている。湿った髪が汗をかいた額に貼りついている。熱風で息が詰まる。 「食欲無いが、お前まさか何か食おうとしているのか?」 「悪イカ? 近クニ坦仔麺ノ美味イ店ガアル」 「坦仔麺? そんなのいつも食ってるだろう」 「イヤイヤ、台南ノ坦仔麺ハ一味違ウ、台南ハ豊富ナ海産資源ニ恵マレタ街ダ、市場ニハ常ニ新鮮ナ魚ガ並ンデル。牡蠣ヤ蝦、ソレニ安平魚(サバヒー)ヲ食ベテ帰ラナイト」 「サバヒーって何だ?」 「知ラナイノカ? サバヒーッテノハ、台南ノ市場ヲ代表スル美味イ魚ダヨ。白身デ、クセモ無ク、実ニ美味イ。安平ノ周リニハ、幾ツモノ池ガ存在スルガ、ソレラハ皆サバヒーノ養殖場サ」 「兄妹揃って食い物の話になると詳しいんだな」 「騙サレタト思ッテ、ツイテ来ナヨ」 「台南にはよく来るのか?」  王志明が目を細める。 「子供ノ頃、家族デ何度カ来タコトガアル」 「美玲もか?」  志明が頷く。そういえばこの兄妹から両親の話を聞いたことがない。 「今更だが、お前たち兄妹の両親は健在なのか?」  志明が再び目を細め、曖昧に頷いた。 「お前、絵に描いたような馬鹿正直な男だな。いいよ、何も話さなくて」 「坦仔麺食ウダロ?」  王志明が安平老街の中に入って行く。路地裏に五十ほど飲茶の店が軒を連ねており、食欲をそそる香りが漂っていた。小さな看板と汚れた古いテーブルと椅子が店先に並んでいる。王志明が路地裏から更に家と家の隙間を抜けた。人通りが無くなった。 「おい志明、どこまで行くんだ」 「イイカラツイテ来イヨ」  リュウも志明も丸腰というわけではなかったが、こういう場所はたいてい地元のマフィアの息がかかっている。狙い撃たれでもしたらひとたまりもない。台北から飛行機を使わなかったのは、今リュウのワークパンツに忍ばせている銃があったからに他ならない。ベレッタM84、別名「チータ」とも呼ばれるイタリア製の銃で、38口径のオートマチック、ダブルカラムマガジン採用で十三発のACP弾を装填できる。空港でのセキュリティチェックは厳しいが、鉄道の駅では基本的にチェックは無かった。 「志明、待てよ」  迷路のような路地裏を、王志明の背中だけ見て追いかける。幾つもの鋭い視線が突き刺さる。やがて王志明の足が止まった。薄汚れた店の前で女と何やら話している。すると女が小袋を手渡し、王志明が財布から金を出した。 「何を買ったんだ?」  志明が白い歯を覗かせた。 「ビンロウサ、勿論知ッテイルダロウ?」  台北でも合法として売られていることは知っていた。 「ああ、檳榔西施が龍山寺辺りで売っているやつだろ」 「ソウダ、ヤッタコトアルンダロウ?」 「いや、ない」  王志明が意外な表情を浮かべた。 「ソウカ、ナラ、一度試シテミルトイイ。今、組織ハビンロウノ成分ヲ濃縮シタ麻薬ノルートヲ開拓シヨウトシテイル」 「ブラッドだろう?」  王志明が小袋から緑の葉に包まれたビンロウを一つ手渡した。 「コウヤッテ噛ムンダ」  ひょいと口に一粒放り込む。ひとしきり嚙んだ後、人目のつかない道端に吐き出した。赤茶色の唾液と皺くちゃになった植物繊維が泡のようになって路面に落ちた。 「まるで血を吐いたようだな」  王志明が苦笑する。 「マア、ソウ言ワズ、ヤッテミロヨ」  リュウがビンロウを口の中に放り込んだ。何ということはない。繊維の塊を噛んでいるという以外、植物の味しかしない。だが、微かに頬の辺りが火照るのを感じた。噛み終え吐き捨てる。自分の口元から赤い唾液が伝うのを見るのは妙な感覚だった。 「たいしたことはないな」 「皆、初メハソウ言ウ」 「俺はまた、幻覚でも見えるのかと思ったぜ」  リュウが苦笑しながら志明を見た。すると一瞬頭の中が揺れたような気がした。 「ドウシタ?」  リュウが頭を振った。 「麻薬、皆、初メハコンナモノカト言ウ。イツデモ辞メラレルトソノ時ハ思ウ。デモ人間ハ弱イ」  リュウが王志明の瞳の奥を覗き込んだ。 「知ってるんだな?」  王志明が鼻の頭を掻いた。 「嗚呼、親父ガ薬中ダッタ」 「美玲も知っているのか?」  王志明が頷いた。 「そうか、俺はお前たち兄妹のこと何も知らないんだな」 「リュウ、済マナイ。隠シテイタ訳ジャナインダ」 「わかってるさ、誰にでも話したくないことはある」 「オ前ガソウイウ奴デヨカッタ」 「だが、そんなお前がなぜブラッドに関わろうとする?」 「俺ニモワカラナイ。俺タチノ父親ハ台北デ事業ヲシテイタ。俺タチガ子供ノ頃マデハナ。ダガ親父ノ仕事ガ上手ク行カナクナリ、鬱ニナッタノガキッカケデ薬ニ手ヲ出シタ。大学モ出タチョットシタインテリデ、子供ノ頃ハ自慢ノ父親ダッタヨ。シカシ生真面目ナ性格ノセイデ精神ヲヤラレチマッタ。ソレカラ家庭ハ壊レテ行ク一方ダッタ。俺ハソンナ家庭ガ嫌デ家ヲ飛ビ出シ、死ヌ程勉強シテ台北大学ニ入リ、学費ト生活費ノタメニ組織ノ仕事ヲスルヨウニナッタ。母親ハ俺タチヲ置イテ何処カヘ行ッテシマウシ、父親ハ現在モ病院ニイル」 「美玲はどうしていたんだ?」 「アイツハ祖母ノ家カラ学校ニ通ッテイタヨ。ソノ頃日本語ニ興味ヲ持ッタラシイ。祖母ガ日本語ヲ話セル人ダッタカラ」 「そうだったのか・・・・・・」  美玲はこれまで一度も両親の話をしたことがなかった。不思議な気もしたが、リュウ自身が家族の話を避けていたので、時に気に留めなかった。そう言えば付き合い始めの頃、淡水河で家族のことを打ち明けた時、美玲が目を真っ赤にしていたのを覚えている。 「リュウ、俺ガ言ウノモ何ダガ、麻薬ニハ手ヲ出スナヨ。今ビンロウヲ買ッタノハ、オ前ニソノコトヲ伝エタカッタカラダ」  リュウが頷いた。 「ところで志明、坦仔麺の店はまだなのか? お前のつまらん話を聞いていたら、急に腹が減ってきた」 「スグソコダヨ」  志明が目を細めた。
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