四十

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四十

 台北の闇市で手に入れたパスポートは、本物と見分けがつかないほど精巧にできていて、これなら羽田から入国可能だと思われた。偽名には慣れている。ただ、キャンバスを持ってということになると目立ち過ぎる。ここは一旦、キャンバスだけ別で空輸して、日本のどこかで受け取ることにした。色々と考えたが、房総の母の施設に送ることにした。施設には母が使い切れない程の金を渡してある。きっと絵画を母の病室に飾ってくれる。ハダケンゴは、立派な額縁に入った白月が、母の病室に飾られている様子を想像した。それに、この絵画は、血反吐を吐きながら親父の借金を返した母のものだ。  久々に嗅ぐ日本の空気に懐かしさが込み上げた。指名手配中ではあるが、今は名前も容姿も大きく異なる。髪の色を染め、目や鼻にメスを入れた。サングラスを外しても、以前のハダケンゴと同一人物とはわからないだろう。空港で、数年ぶりに日本食を口にした。一度銀座の画廊に寄って、白月にふさわしい額縁を買い、そのまま房総に向かった。日本には四季がある。だが、この房総だけは冬に訪れても常に花が咲いている。もう少しで正月がやってくる。厚い雲に覆われた空と、白く霞んだ太平洋を眺めていると、気持ちが塞いでしまいそうだった。久々に日本の正月を味わう。父親が他界する前は、家族三人で雑煮やお節料理を食べて過ごすのが当たり前だった。母の施設でも正月らしいものがふるまわれているのだろうか。何年経っても、父への思いは複雑だった。心のどこかに、家族を路頭に迷わせる原因を作った父への恨みが残存する。しかし、例えそうだとしても、父は父なのだ。ケンゴは墓前に花を手向けつつ、口に出しても仕方のない恨み節を呟いた。霊園の小道を抜けて、母の施設に向かう途中、ケンゴは遠くからこちらを見ている男に気がついた。青のジャンパーを羽織った痩せた男だった。知っている顔のようにも思えたが、そんなことはどうでもよかった。  施設で面会を希望すると、母はちょうど眠ったばかりということだった。ケンゴはしばらく病室のソファで待つことにした。台北から施設に送った白月が届いていた。ケンゴはそれを受け取り、母が眠っている病室に飾った。 「母さん、これが、父さんが手に入れた本物の白月だよ」  眠っている母の表情は穏やかだった。勿論、言葉など通じてはいまいが、幸福だったころの母が、自分の話を聞いてくれているような気がして、胸が熱くなった。 「こうやって額に入れて飾ってみると、案外、あっけないものだと思わないかい? 父さんも、こんなもののために借金までして・・・・・・。でも、もうそんなことを考えるのはやめにしようと思うんだ。この絵のために、どれだけ多くの人が死んでいったことか」  母の顔を見た。 「母さん、俺は正直、もう疲れたよ。この絵を手に入れた時、すべて燃え尽きたような気がしたんだ。親父の敵は俺が取った。親父を騙した男を、この手で葬り去ったんだ」  ケンゴが肩を震わせた。 「母さん、俺はもう行くよ。目覚めた母さんにも会ってみたかったけど、俺は、今の穏やかな顔をした母さんの方が好きさ」  そう言って、立ち上がった。すると、病室の扉がすっと開き、霊園で見かけた青いジャンパーの男が入ってきた。部屋を間違えたんだろうと、声を掛けようとした瞬間、その男が胸に飛び込んできた。しまった、と思った。胸の下に鋭い痛みが走り、息ができなくなった。男の顔を見た。思い出せなかった。細く尖った小型ナイフが肋骨をすり抜けていた。男の体が離れると同時に、血しぶきが上がった。男が後退りする。ケンゴは自分の血で真っ赤になりながら、母のベッドに倒れ込んだ。母はまだ眠っていた。  北陽会のセリザワを通じて、ショウに連絡が入ったのは、ハダケンゴの死から一週間後のことだった。ヤマモトギンジが会いたいという。関係のないことだと一度は断ったが、父タザキノボル、母タザキヨウコの死の真相と、祖父タザキコウゾウとの関係を明らかにすると約束した。場所は新宿歌舞伎町のヤマモトの自宅だった。  約束の日、街は正月休みで閑散としていた。空気は冷たいが、青空が広がっている。神保町から新宿まで靖国通りは空いていて、十五分ほどで歌舞伎町に着いた。周囲を威圧するような高層マンションの前に車を滑らせると、自動で地下駐車場へのゲートが開いた。ショウのアウディが地下に降りて行く。  遠くで、正月を祝う笛の音が鳴り響いていた。                                  了
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