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一
立ち上る湯煙の先に海が見える。岩肌を打つ波の音がする。岩礁の間から湧き出す温泉が硫黄のにおいを漂わせていた。石で円形に形作られた浴槽は、潮位が増すと共に水没し、大海原の一部と帰す。南海の空は澄み渡り、ヤシの葉が風に揺れていた。
台湾本島の東側に浮かぶ離島。人口数千人足らずのこの島は、海底温泉がある以外、サンゴ礁でダイビングを楽しむ若者が訪れるくらいで、街はひっそりとしている。鄙びた温泉街の外れに小さな集落があり、住人の大半がその村で暮らしていた。この島では珍しい砂浜に面し、背後は岩肌がむき出しになった小高い丘になっている。熱帯のヤシの木々に囲まれ、村の様子を見ることはできない。岩盤をくり抜いたような洞窟が幾つも存在し、時折数人の男たちが出入りしていた。
「アンタ、日本人カ? 」
狭い洞窟の中でパイプをくわえた男が、鼻から紅い煙を吐いた。コバヤシは返事をするでもなく、頭を下げるでもなく、トロンとした目つきでいつもと同じ場所に腰を下ろし、紅い粉の入ったパイプに火をつけた。コバヤシはこの村の常連だった。基本的に誰とも話すことはない。初めのうち珍しがって話しかけていた男たちも、今では道端の石ころでも眺めるような目で見ていた。
「アイツノ目ヲ見タカ?」
陰口が聞こえてくる。村の噂を聞いて初めて訪れた若者がよく口にする。
「アイツハ日本人ラシイ」
村を仕切っている連中は、コバヤシが組織の人間だと知っている。もうかれこれ二十五年になる。村の外れの小屋で寝起きし、ふらっとこの洞窟に来ては紅い煙を吸い、いつの間にか消えている。長い髪は潮風と脂で汚れ、髭が伸び、時に服は絵具で染まっている。時折何か呟くが、誰もその意味を理解できなかった。数か月に一度、組織から雇われた者が訪れ、身の回りの世話をし、新しい服や生活に必要なものを買い揃え、伸びきった髪や髭を剃り、夕方数枚のキャンバスを持って帰って行く。コバヤシは絵を描いて紅い煙を吸う以外、何も一人ではできない人間だった。
紅い粉は以前は名前など無かった。昔からこの地域に風土病のように蔓延っていたもので、ビンロウから採取される麻薬成分を凝縮し粉砕したものだった。それは時に液体として売られたり、飴やガムなどに加工された。台湾や中国、東南アジアから世界に輸出される過程で、誰かが「ブラッド」と呼ぶようになった。成分に紅い色素を含むため、吐き出した唾が血のように見えるからである。いつしか洞窟でも紅い粉はブラッドと呼ばれるようになった。口から直接採取しても問題ないが、人によっては効き過ぎて、失神してしまうこともある。飴やガムから染み出した成分が唾液と混ざり、徐々に吸収されて行く方が若者や初心者には向いているが、ある程度の経験者となれば、粉末をパイプに入れて火で炙り、煙草のように体内に入れるのを好むようになる。洞窟はそんな人間の集まる場所であり、様々な情報交換の場であった。初めてコバヤシが訪れたのが二十五年前。まだ二十代の頃だった。四十代と思しき中国人と一緒だった。噂では日本人はその中国人のツバメだと言われていた。よく二人きりで小屋に入るのを目撃されていたし、寄り添う姿がどことなく恋人同士を思わせたからである。それに、コバヤシは男前で、商売女の方から言い寄ったこともあるのだが、頑なに関係を拒んだ。自ら女を買いに行くこともなく、いつしかそんな噂が付きまとうようになった。現地の人間と親交を持たず、誰もコバヤシの存在を気にかける者はいなくなった。
孫小陽はむやみにコバヤシにクスリを与えなかった。小屋に置いておけば、欲望のままに過剰摂取してしまうことはわかっていた。自慰行為を覚えた欲望を抑えきれない猿のようにクスリを食らっては、人としての生活も、画家として贋作を描き続けることもできなくなる。躁と鬱を繰り返し、自ら死を選ぶことは目に見えていた。だから村の洞窟でのみクスリを摂取することを許した。人間は弱い。特に芸術家という人種は脆くて、繊細で、時に手に負えない。それがコバヤシのような贋作絵師であってもである。
コバヤシは孫小陽が見てきた限りにおいて最高の贋作絵師だった。コバヤシが描く贋作は、単なるコピーではない。写真のような精密な技術があるわけでもなく、画家の個性を前面に誇張するわけでもない。コバヤシの贋作は、真作と並べて置いた時、似ていないことさえある。しかし、真作の過去の印象を持つ人々に、真作と思わせる魂を吹き込むことができる。孫小陽に言わせれば、画家本人以上を作り出す魔法の腕を持つ男だった。
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