三章 黒糖ほうじ茶ラテと煙管

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三章 黒糖ほうじ茶ラテと煙管

 その時、瑠璃子はやっと就職した今の会社に慣れて来たところで、しかも、会社の先輩から告白されて付き合っていた。秘密のオフィスラブ。今まで物語の中でしか読んだことのないような状況に、まるで自分が物語の主人公になったような気持ちになった。  しかし、そんな気持ちは、叩き落とされる。  一年近く付き合ったところで、先輩は別の女と婚約したのだ。  しかも、問い質した時に帰ってきた返答は、最悪だった。 お互いに楽しい時間を過ごしていたのだから、問題ないだろう。なんなら、婚約者にバレないように、これからも続けていこうと、いけしゃあしゃあと言ったのだ。  瑠璃子は返事の代わりに頬に平手打ちを見舞って、その恋は終わりを告げた…。    その後、瑠璃子は乗り換えで使っている、都心の駅で降り、ぼんやりと暮れゆく街を歩いていた。  自分を騙していたあの男はもちろん許せないが、それ以上に許せないのはただ浮かれていた自分だった。よく考えてみれば、サインはそこかしこに転がっていた。なのに、浮かび上がった疑問に蓋をして見て見ぬふりをしたのだ。  悔しい…。  そう思ったら、泣けてきて視界が滲む。  街中で泣いてると目立つだろうと、人通りが少ない通りを選んでひたすらに歩いた。  そして、気がつくと、例の道に偶然出ていたのだ。  怖い道に出てしまった…と思い、早足で抜けようとした。だが、歩けば歩くほど闇は深くなってゆく…そんな瑠璃子の目に、暖かな光が見える。  瑠璃子は藁にもすがる思いで走り、そして「黄昏」の前に立っていた。  看板は出ているから、お店であろう事はわかったが、中が見えないので入るか悩む。  その時、突然扉が開く。  驚いて一歩下がった瑠璃子の前に現れたのがコウキだったのだ。  「妙な気配がしたと思ったら…」  現れた人間にホッとしてしまい、ちょっと泣きそうになった。  「あのぅ…ここは何のお店なんですか?」  「、です」  「喫茶店…」  あえてにっこりと笑って答えるコウキに、少し胡散臭さを感じたものの、ここを歩くよりは…と思い  「あの…」    と聞いてみた。  コウキは、少しの間じっと瑠璃子の顔を見ていたが、  「」  扉を開けて店内に招き入れてくれたのだ。  入った途端、店内にいた客の視線が自分に集まった気がしたが、コウキは構わず、瑠璃子をカウンター席へと誘った。  「この席なら、安全ですから」  そう言って、カウンターに入ったコウキは、オーダーも聞かないうちに何か作り始めた。  まず感じたのは、香ばしく、甘い香り。  次にシューっと言う蒸気のような音。  やがて、ティーカップがカウンターにことりと置かれる。  「黒糖ほうじ茶ラテです」  「………」  「甘いもの、お嫌いでしたか?」  「あっ。いえ、大好きです!」  ふわふわに泡立てられた牛乳に、格子状にかけてある黒蜜がキラキラと光っている。  瑠璃子は、ティーカップを手に取ると…  「いただきます」    一口、こくりと飲んでみた。  牛乳の優しいまろやかさの後に、ほうじ茶の香ばしさと、黒糖の濃厚な甘みが口の中に広がる。  「美味しい!」    そんな、瑠璃子の様子を見たコウキは、  「お口にあったようで、何よりです」  と、微笑んだ。  いつの間にか強張っていた心と体が解けていくのを感じていた。  「今日すごくたくさん嫌なことがあって…。でも、なんだか、楽になりました」  「それは良かった。…どうせなら、嫌なこと全部、ここに置いていってはいかがですか?」  「置いていく?」  「はい。これも何かの縁ですから。全然知らない僕だからこそ、話しやすい。そんなこともあるんじゃないかと」  「………なるほど」  瑠璃子は、ぽつりぽつりと今日あった事を話し始めた。  気がついた時には、今日あった出来事を、初対面のコウキにするすると話してしまっていた。  途中で、自分を包み込むような優しく、穏やかな花のような香りがしていて、そのうち、疲れが出たのか、だんだんと瞼が重くなってくる…。  「……おや、少し強かったかな…」  コウキのそんな呟きを最後に、瑠璃子の意識もまた解けてしまった…。  瑠璃子の意識が浮上して来た時に感じたのは、お香のような、少し癖のある、そんな香りだった。 続けて、ちりちりと微かに何かが燃える音。  瑠璃子が目を開けると、コウキが何かを手に持ち、吸っているのが目に入った。  「目が、覚めましたか?」  「あ…すみません、寝てしまって」  瑠璃子はカウンターに突っ伏して寝てしまったようだ。肩には毛布が掛けられていた。  「お酒を飲んだわけでもないのに…」  「ほうじ茶にも、黒糖にもストレス軽減の効果がありますし、店でリラックス効果のあるお香を焚いていたので、それが理由でしょう。お気になさらず」  ふと店内を見回すと、客は一人もいなかった。  「今日は閉店しました。お客さんもちょうど切れたので」  「そうですか…それ、煙管(きせる)ですか?」  「すみません、匂い気になりますか?」  「いいえ。大丈夫です。気にせず、どうぞ」  「それでは、お言葉に甘えて」  コウキは、先の雁首と呼ばれる部分…受け皿のような所に、刻んだ葉を軽く丸めて詰め、吸い口を咥えると、燐寸(マッチ)を吸って、雁首に近づけ火を付ける、後は羅宇…真ん中の棒のような部分を持ち、実に美味そうに煙を燻らせた。  「煙管、吸っている人初めて見ました」  「ああ。今は珍しいかもしれませんね。僕はどうも、長年慣れ親しんだこちらの方が落ち着くんです」  「……?そうなんですね」  とても綺麗な顔立ちをした不思議な男を、瑠璃子は何だかもっと知りたい…自然とそう思った。  瑠璃子にとって、それがコウキとの出会いだった。          
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