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第五章 視線の主
瑠璃子は夜道を足早に歩いていた。
以前から感じていた纏わりつくような視線は、日に日に酷くなり、もはや気のせいで済まされるものでは無くなっていた。
会社や帰り道、絶対に誰かに見られている。それには間違いがないのに、姿を確認出来たことはない。
警察に相談しようにも、これだけで、動いてくれるとは思えなかった。
なるべく一人にはならないように気をつけてはいるが常に、とはいかない。
今日も帰りの電車までは同僚と一緒だったが、駅から部屋までは、一緒に着いてきてくれ…とは、さすがに頼めない。
しかも、この日はなんだかおかしかった。
駅に着いても、同じ道を歩いている人が必ずいる。いるはずなのに、今日は一人もいない。それどころか、駅前に全く人がいない。瑠璃子は、怖くなった。
足早に家路を急ぐ…。
辺りを見回してみるが、全く人がいない。
おかしい…。
そして、いつもの角を曲がった時だった。
「……え…?」
そこは、見慣れた道ではなく、全く知らない道だったのだ。
「どうして…」
慌てて、瑠璃子は引き返そうとした、その時、
「きーのーみーちーさん」
妙にのんびりとした呼びかけに、瑠璃子は恐る恐る振り返る。
その声には聞き覚えがあった。
そこには一人の男が立っている。
「向島…くん」
会社の後輩の向島が、立っていた。いつも俯いていて、暗い印象の、目立たない男。
「僕ね、会社に入ってから、ずーっと見ていたんですよ。木野道さんのこと」
顔を上げた向島の目は、酷く濁っている。
瑠璃子は確信した。あの纏わりつくような視線はこの男のものだと。
「おいしそうだなぁって」
にんまりと笑った向島の口には、妙に発達した牙のようなものが見える。
恐怖のあまり、声も出せずにいる瑠璃子に向島が襲いかかってくる!
「いやぁぁぁぁぁ!」
瑠璃子は頭を抱えてうずくまる。
そこに、ゴゥ!という音とぎゃぁぁぁぁぁ!という声。
瑠璃子の身には何も起こらない…?
「危ないところでしたね」
妙に落ち着いた声には聞き覚えがある。
まさか…。
ばっと顔を上げた瑠璃子の目に最初に飛び込んできたのは、刺さってしまいそうに細い、下弦の月。
そして、にこりと笑って瑠璃子を見下ろす、男。
「コウキ、さん…?」
白いシャツに黒いベストとスラックス、そして、赤い石のループタイ。確かに容姿はコウキだ…だが、髪が真紅に染まっている…。そして…
「怪我がないようで何よりです」
そう言って微笑む、その目もまた、混じり気のない真紅。
振り返るコウキの後には、真紅の炎に包まれてのたうち回る向島の姿があった。
コウキが軽く右手を振ると、向島を包んでいた炎が消え失せる。
荒い息をつきつつも、向島は濁った目でコウキを睨む。
「お前は、香鬼!何故だ!何故邪魔をする!!」
向島は何故コウキの名前を知っているのだろうか?
「お前こそ…僕に縁がある者に手を出すとは、いい度胸だ」
「うるさいうるさい!!その女は俺の獲物だぁ!!!」
向島がコウキに向かって襲い掛かる!鋭く伸びた爪が、コウキの首元を切り裂く!
「ふふふ…あははははは!色持ちを倒したぞぉ!!」
笑いながら、雄叫びを上げる向島。
「……馬鹿だなぁお前」
背後から聞こえた声に向島が振り返る。
そこには、傷一つなく、優雅に煙管を吸っているコウキの姿がある。
「いいことを教えてやる。香りは、ここに作用するんだよ」
人差し指でこめかみをとんとん、と叩く。
「幻覚を見せるのはお手のものってことだ」
悔しげにコウキを見ていた向島は、突然、首を締められたかのように苦しみ出した。
「ば、馬鹿な…さっきから香りなんて、少しもしてないのにっ」
「もう一つ、教えておいてやる。僕が操るのは、香りに関する事全てだ。つまり、香りを完全に無くした上で、効能だけここに叩き込むことも可能って事だ」
向島の眉間を人差し指でとんとん、と叩き、にっこりと笑うコウキの口には、向島と同じく、鋭く発達した牙が見える。
「今回は、瑠璃子さんに傷ひとつなかったから見逃してやる。けど、次に手を出したら…容赦しない」
苦しんでいた向島は、突然解放されて、へたり込んだ。
「行け」
コウキの言葉を聞いて、向島は一目散に駆け出した。
その一部始終を、声もなく見ていた瑠璃子へ、真紅の髪と目をしたコウキが手を差し出す。
その差し出された手をすんなり取ることが出来ず、瑠璃子はコウキの吸い込まれそうな真紅の目を見る。人間とは明らかに違う、その目を。
「今のは、なんだったんですか?」
コウキは手を一度引くと、瑠璃子の前に膝をついて、視線を揃える。
「あれは、食人鬼という、下位の鬼です」
「食人鬼…?」
「はい。奴らは人を食すことで、人の生気を取り込むんです」
「………コウキさんも、鬼、なんですか…?」
「…ええ、そうです」
「コウキさんも…人、食べるんですか…?」
「ん〜あれと一緒にはされたくないですね…。鬼にも格…というものが存在します。僕はあれよりは上なので」
「上…」
「はい。僕ら…色持ちの鬼にとっても、人の生気はごちそうではありますが、物理的に食べたりはしませんよ」
「え…それってどういう…」
「瑠璃子さん。僕の事が怖いですか…?」
「………」
怖い、のだろうか?
この、美しい真紅の髪と目を持つ、鬼のことが…。
そんな事でぐるぐると悩んでいる瑠璃子の様子を見て、コウキは少し寂しげに笑った。
「なら、こうしましょう。瑠璃子さん、手を出してください」
瑠璃子は、おずおずと手のひらを差し出す。
コウキは、そこに自分のループタイを外して、乗せた。
「瑠璃子さんが、また僕に会っても良い。そう思ったら、これを店に届けに来て下さい」
コウキは、微笑む。
「お待ちしています」
その言葉を残してまるで煙のように揺らいだかと思うと、すぅっと消えていく。
瑠璃子の手の中には、コウキの髪と目の色を閉じ込めたかのような真紅の石が嵌め込まれたループタイが光を放っていた…。
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