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桃子side 水を失った魚は泳ぐことが出来ない
ここの夜景は今日も綺麗だ。海の上に架かる橋がライトアップされている。その上を通る車のライトが流れる星のように見えた。彼が今日この場所を選んだのは、七年前に告白してくれた場所がここだから、なんていう情緒的な理由ではないだろう。そういうのをこのひとに求めるのはたぶん間違っている。
学会の帰りで、一緒にいてもおかしくないタイミングを見計らったに過ぎない。
職場の同僚に見咎められても、簡単にはぐらかすことが出来るから。
「別れてくれ」
なんとなく、この言葉を言われるとわかっていた。夕食をとる間、時折難しい顔をしていたのは、切り出すタイミングをうかがっていたのだろう。外科医らしくない。いつもの鋭利な判断を鈍らせたのが私へのわずかな未練であったらいいと思う。
和弘はいつも論理的で冷静だ。だから、どうして彼のほうが泣きそうな顔をしているのか少しも理解がおいつかない。ここで泣くのは本来なら私のほうだろう。
「どうして、泣きそうな顔をしているの」
「本当にごめん、桃子。許してくれなくていいから」
私が許そうが許さなかろうが、別れるという結果はかわらない。ならば、エネルギー的に楽な方を選んだ方がいい。
その「ごめん」は何に対して謝罪だろう。なんてことを頭の中でぐるぐると考えながら、私は「わかった」とひどく物分かりのいい返事をしていた。
和弘の判断に私はどこかで安心していたのだと思う。由緒正しい家系の和弘の実家で針の筵になることは耐えられるかもしれないけれど、和弘の顔に泥を塗るのは嫌だった。私のような粗野な生まれの女は歓迎されることがない家だ。値踏みをするようなあの視線に、もう晒されることがないと思うと心が楽だ。別れる悲しみよりも、そういった損得を勘定するようになってしまった。
可愛げの欠片もないではないか。
「君は綺麗で優しいからすぐに俺よりもいい相手が見つかる。もしもそうでなくても、君は強いから、きっと一人でも大丈夫だ」
なにが大丈夫なのだろう。
どのへんが私は強いのだろう。
私は強くてしたたかだから。別れたって大丈夫、そうやって去っていくつもりなのだ。その言葉は私に掛けられているというよりも、彼自身が自分自身を納得させるために紡いだ言葉のように思えた。
「じゃあ、また病院でね」
ここで泣いて縋りつくことができたら、和弘はどうするつもりなのだろう。私にはそんな気力も可愛らしさもないのだけれど。
和弘と別れたその足で、私は大きな水槽を買った。水を入れて、一緒に買ってきた水草も入れる。フィルターを設置して、ちょろちょろとろ過した水が循環する。部屋の中に静かな水の音が流れていくのは、思った以上に心地よかった。
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