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1-1
黄金の林檎が実った樹木、それを守るように佇む錆びた竜、終わりのない草原、太陽の光に包まれた虹色のうつくしい世界。この風景を見るのは何度目だろう。視界の淵が水彩のように滲んでいて、ここが現実でないことがすぐにわかる。ひどく体がだるく、ただひたすら不思議な光景を眺めることしかできない。
錆びにまみれた竜はじっとこちらを見つめている。竜の目は火の粉のように煌々としていて、それを見る度に胸の内がちりちりと熱くなる感覚があった。彼の目からは気迫が発されていて、何か急かされている気がして落ち着かなかった。
行かなければ。
やらなければ。
けどいったい何を――?
しばらくして、竜は何かに気が付いたかのようにそっぽを向いてしまった。
嗚呼、また応えられなかった。
彼が何を伝えようとしていたのかわからず、うつくしい世界は闇に溶けていった。
「シリウス、貴様! いつまで寝ているつもりだ!」
突如、あばらに衝撃が走り、軽い体が吹っ飛んだ。大方何があったのか予想がつく。館で働く見習い達を総括する男が、ボロボロの敷布団からシリウスを蹴り落したのだ。シリウスは慣れているとはいえ、寝起きの出来事に受け身を取ることができず、壁に体ぶつけて、肺の中の空気がすべて抜ける感覚に陥った。蹴られた脇下の痛みと壁に打ち付けた背中の痛みに悶えて丸まっていると、上から怒声を浴びせられる。
「もたもたしていると日が昇っちまうぞ。今日は奥様が街に行かれる日だぞ、わかってんのか」
「はい……、上長」
なんとか身を起こし壁を伝って立ち上がった時には、は既に工具箱を持って宿舎から出ていこうとしていた。
「お前は奥様に御挨拶できるよう支度をするんだな。間違ってでも奥様方の機嫌を損ねるんじゃないぞ。いいな!」
乱雑に戸が閉められ、足音が遠のいていった。
周囲を見渡すと、ベッドには他の見習いの姿はなかった。どうやら寝坊してしまったようだ。
シリウスは敷布団とは名ばかりの古びたマットを畳んで隅に置くと、手早く井戸で顔を洗い、この館の当主達の――実父たちの目覚めを雑用をこなしながら待った。
「おはようございます、奥様。朝食のお時間です」
朝一番、この家の主人たちを食卓へ呼ぶのもシリウスの仕事だった。この仕事を任せたのはシリウスの父である当主・ヴィクトールだった。一応ザンラードの血を引いているシリウスを監視するためでもあるこの仕事は、シリウスにとって苦痛であった。特に夫人を食卓に呼ぶときは今でも覚悟がいる。彼女の機嫌によっては何が飛んでくるかわからないからだ。脈が上がっていく。頭がクラクラするのを踏みとどまって声をかけた。
「奥様」
返事はない。扉に近づいて耳を澄ませてみると使用人をせかすような声が聞こえてきた。
「――荷物は先に馬車へ。帰りのブローチはエメラルドからオパールに変更。そこのお前、ヴィクトールから各ショップの最新の案内紙を貰ってきて。出発前に目を通すわ。それから――」
扉が開かれて、当主から案内紙を受け取るよう指示された侍女が部屋から出てきた。扉に近寄っていたシリウスは咄嗟に壁際へ避けて道を開けた。侍女はシリウスに目もくれず、足早に当主・ヴィクトールの部屋へと向かっていく。扉が再び閉ざされたタイミングで、もう一度、今度は強めにノックをした。
「奥様」
一瞬、部屋から音が消えた気がした。すかさず言葉を繋ぐ。
「朝食の準備ができました。旦那様とヘクトール様がお待ちです」
ヘクトールとは、シリウスの義母兄弟である。シリウスを含めた三男坊であり、普段は騎士団の一員として王都を中心に魔物退治などの任務をこなしている。
ドアノブが動いて、ザンラード夫人が部屋から出てきた。細くきりっとした眉の間には深い皺が寄せられており、その緑の瞳はにらみつけるようにしてシリウスに向けられている。不快だ、と言わんばかりの表情である。腕の中には一匹の猫が抱えられており、片手には紫の扇がおさめられていた。
「ヴィクトールが席に着く前に、なぜ私を呼ばなかったのかしら」
「申し訳ございません」
いつも通りの時間に夫人を呼びに行こうとしたところ、今日に限ってヴィクトールとヘクトールが食卓に着いていたのだ。だが夫人には口答えは許されない。すかさず頭を下げて、許しを乞う。
「まるで私が遅刻をしたようじゃない。さてはお前、この私に恥をかかせる気?」
「いいえ、そんな」
そんなつもりはなかった。そう弁解しようとして思わず頭をあげてしまった。しまった、と思った時には遅く、夫人が持っていた扇の先が額の中央に突き付けられる。バランスを崩され、硬い床にしりもちをついた。ここでまた夫人を見上げそうになるのをこらえて、膝をついて額を床にこすりつけた。
「私が、いつ、顔を上げていいと言ったのかしら」
「申し訳ございません、奥様」
心臓がバクバクとなっている。怒られた。もうだめだ。熱した鉄を押し付けられる?それとも鞭打ちか?地下に閉じ込められて数日の飯抜きか?地下室での折檻が一番まずい。夫人は今日から数日家に戻ってこない。この家にシリウスの味方は殆どいない。そうなると自分はどうなる。飢えと渇きの苦しみを味わうことになる。あれは死ぬ直前に施しを受け、再び館に呼び戻されるのが一番堪えるのだ。
「どうかお許しを」
にゃー、と猫が鳴く声がした。
「あらあら、私のシャルロッテ。朝から小汚いものを見せたわねぇ」
彼女の愛猫が夫人にじゃれついたのだろうか。夫人の声色に甘さが見えた。しかしそれも束の間で。
「シリウス。私のシャルロッテに朝食をおやり。くれぐれも熱さに注意してやるんだよ」
そう言うと夫人はシャルロッテを自室の床に下ろし、ひとりで食卓へと向かっていった。
シリウスはキッチンからシャルロッテの朝食を受け取ると、再び夫人の部屋に戻り、盆を置いた。猫が躊躇せず飲めるほど冷まされたホットミルク、魚をすり潰して団子状にして焼いたもの、乾かした果物など、シリウスが普段口にする物よりもはるかに豪勢だった。
シャルロッテは盆を前にすると必ず「にゃーん」と鳴いてみせる。召し上がれ、と言葉を返してようやく食事をする礼儀正しい猫なのだ。
ぺちゃぺちゃと上品にホットミルクを飲み始めたのを確認して、小脇に抱えていたバケットの切れ端をこっそり口に運んだ。部屋にパンくずが落ちないように、こっそりと。この白猫が食事を終えて皿を下げるまで、近くにいてやらないといけない。シリウスにとって心が一番落ち着く時間であった。夫人も食事に行ってしまえば小一時間程は戻ってこない。皿を下げるまでが仕事だということを他の使用人も理解しているから、シリウスに仕事を振ってくる者もいない。
シャルロッテが食事を終えるまでは体も思考も自由になる。その自由時間で思い浮かべ得ていたのは今朝がた見た夢のことである。ああいった夢は幼いころからよく見ていた。いつも視点は一緒で、雲の動きと草花の揺れ方くらいしか違いはない。あの錆竜が一体何なのかもわからない。昔は頻繁に夢に出てこなかったが、今春を迎えてから毎日のように夢に現れるようになった。周りはこういった同じ夢を見ないのだという。ある時は空を飛んでいたり、ある時はお菓子をたらふく食べたりと、レパートリーが尽きないのだとか。いったいなぜ、似た夢を何度も見るのだろうか。
そうぼーっとしながらバケットを齧ろうとして、遠くから足音が聞こえてきた。それはせわしなく、カーペットにヒールを叩きつけながらこちらへと向かってくる。夫人の足音にしてはヒールの音が鈍かった。慌ててバケットを服の中へ隠すと、何事もないようにシャルロッテと向き合った。同時に扉が開かれる。
「シリウス」
そこには長年この家の侍女長を務めてきた、顔に歳の皺が目立つ女性が顔をのぞかせていた。
「はい、なんでしょう」
何か無意識に夫人の怒りに触れるようなことをしてしまったのだろうか。
「御当主様がお呼びよ。急いで食卓まで行きなさい」
「しかし、シャルロッテの食事が――」
「大至急よ。くれぐれも奥様の機嫌を損ねないように」
シリウスは急いで階段を降り、食堂へと向かった。すれ違う使用人たちが急ぐシリウスを見ては、ため息をこぼしたのが聞こえた。また何かしでかしたのだろう、と。
「御当主様、お呼びでしょうか」
「遅かったな」
一番奥の席にはこげ茶髪を持ち、少し大柄な体つきをした当主・ヴィクトールが座っていた。
「お前はいつもどんくさいな。そこらの見習いの方がまだ使える。こんなヤツと血族とは――」
へらへらと笑いながら嫌味を言う彼はヘクトール。シリウスの二つ下の弟である。シリウスとヘクトールの間に一人弟がいるが、彼は次期当主として学問を修めるため王都にて学寮に入っている。整理すると、シリウス、王都にいる次男(表向きには長男)、ヘクトールという歳順だ。
「シリウス、我が妻が本日より三日ほど、都市エスターテに行くことになっているのは知っているな」
「はい、当主様」
「お前も同伴しろ」
了承の言葉を継げるよりも先に「え」と驚きの声が漏れた。しまったと思ったが、その小さな声は夫人の声にかき消された。
「同伴って……何を考えているのですか。この子を街に連れていくなど、ザンラード家の恥ですわ」
「まぁ話を聞いてくれ。……シリウス、我が領地ザンラードが魔物の脅威に晒されているのは知っているな?」
「噂程度ですが……」
雑事で業者とも関わることがあるシリウスは、ザンラード領内で魔物の動きが活発である事、そのため食材などの仕入れが滞ることがあったことも把握していた。
「エスターテまではヘクトールが所属する聖梟騎士第三部隊小隊に護衛を任せてある」
「はい父上。母上はこの私が責任をもってエスターテまで送り届けます」
「だがその後はヘクトールは別任務を任されている。帰路は別小隊が護衛してくださるそうだが、問題は街中だ」
「街中……ですか」
魔物が街の中に入ってくることなど殆ど無い。特にエスターテ程の大きな街には関所が存在しており、有事の際には門を閉めて籠城することも可能だ。それなのに街中での行動を心配するとは不自然だ。話が見えずにいると、それを察したのか当主はヘクトールに命じた。
「ヘクトール、近況を報告しろ」
「はい父上」
ヘクトールは母親譲りの緑色の目を一瞬だけ鋭い視線でこちらに向けると、食器具を置いた。
「……先日、エスターテ北部に位置する村が一夜で壊滅しました。魔物の仕業と見て間違いない模様。魔物の種別は不明、その後の足取りが掴めていません。エスターテには現在、臨時で派遣されている衛兵が多く配置されています。しかし魔物の種別が飛行型である場合、奇襲を仕掛けられる可能性があります。もちろん迎撃用の武具は配置してあるとのことですが、夜襲の場合撃退するのは困難を極めるでしょう」
「聖梟騎士長のお言葉は変わらずか」
「はい。最後の厄災が訪れる予兆であるとのことです」
厄災。この聖アンブロシア王国に伝わる九つの厄災のことである。おおよそ百年ごとに一度厄災が訪れ、そのたびに竜の血を受け継ぐ勇者が退治してきた。館の外に出た経験が少ししかないシリウスは、国の大事といわれても実感が持てなかった。
「我が妻グリシナには基本的には馬車で移動し、外出は最大限控えるように伝えてある。行動が制限されたグリシナの使いをこなせ。そして万が一有事の際はその身を挺して守れ。いいな」
「はい。父上」
「……グリシナにひとつでも傷をつけて戻ってきてみろ。今冬、お前の寝床は馬小屋になるぞ」
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