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1-2
聖アンブロシア王国は広大な国土を持つ。大陸の中でも最も大きな国である。王国内でもシリウスが身を置くザンラード領は鉱山の数が最も多く、この地を支配するザンラート侯爵は鉄鋼業から宝石業まで幅広い企業を手中に収めている。ザンラード家は代々鉱業を営むほか、その次男以下は王国の聖梟騎士に志願する習わしがあり、商、武どちらからも国を支える一柱であった。
シリウスはザンラード家の長男でありながら、当主の継承権は実質所持しておらず、使用人に混じって館の雑用をこなしていた。早い話が、当主であるヴィクトールが使用人に手を出して作った子だ。ザンラード夫人(名をグリシナという)との間にはなかなか子宝に恵まれず、その間に生まれたのがシリウスである。シリウスの誕生後、ザンラード夫人にも子ができ、お家の存続は安泰へと導かれ、シリウスは早くも用済みとなった。
特に夫人からは快く思われていない。奴隷のように手酷く扱われており、シリウスの体には幾つもの傷跡があることを館内の人間ならば誰もが知っている。夫人がシリウスに対して辺りが強いのは、彼女の血筋が関係している。夫人は王族の血を引く家柄の娘である。自分を差し置いて、あろうことか使用人に手を出し子供まで産ませたことを未だに根に持っているのだ。そのため当主であるヴィクトールは頭が上がらない様子であり、完全に彼女の尻にしかれている。そして館内では、いかに夫人に気に入られるかが出世の要でもあり、誰もが夫人に気を使っている。
ふと、ガタンと馬車が揺れた。
窓の景色は館周りの木々が生えた森とは違い、開けた草原へと変わっていた。空はどこまでも広く、自分が知っている世界がどれほど狭いかを知った。大きな街なだけあって交通量が多いのだろう。道が舗装されているらしく、先ほど一度大きく揺れてからは穏やかになった。
遠くには堅牢な城砦が見えた。出発前にヘクトールから聞いた話によれば、エスターテはその昔に他国から切り取ったものだという。その名残で城塞都市として現在も機能しているらしい。
シリウスは広々とした青空を眺めながら、無意識に襟元へ手を伸ばした。いつもは使用人のおさがりを着ている。それもシリウスのやせ細った体格に見合わない大きさのものだ。だが今着ている物は上質なシャツだった。のりがきいていて、いつもとは違う質感がむず痒い。喉元までぴっちりと絞められたボタンが苦しかった。
「シリウス、そろそろ到着するわ。間違ってでも粗相のないように
そしてちらりとシリウスの手元を見て、
「苦しいからと言ってボタンを外さないこと」と言い、持っていた扇でシリウスの手を叩き落とした。
「申し訳ございません、奥様」
関所を通り抜けると、そこはシリウスも見たことがない大都会だった。大きな馬車道の両脇にはずらりと建物が並び、その前には果実を乗せた荷台を引いて売っている者や、出店を建てて焼いた肉や美しい花などを(売る者たちがいた。
「さすが我が領地最大の街。賑わいが違うわ」
夫人も満足そうな表情で、街並みを眺めている。
ヘクトールによれば、街の入り口は五か所あり、それぞれの道が中央へと真っすぐ伸びているのだという。街の中央には時計塔と見られるものが確認できた。
――馬車が止まった。
シリウスは急いで馬車を降りると、夫人に手を貸そうとした。
「邪魔だ、どけ」
そこへ、護衛として馬に騎乗して着いてきていたヘクトールに役目を奪われ、シリウスは大人しく下がった。
目的地は夫人が贔屓にしている宝石店のひとつだった。ザンラード領にはザンラード家が管理している宝石店以外のショップも多くあるのだという。
「それでは母上、私は一度街を離れ、任務にあたります」
ヘクトールは夫人に向き合って敬礼をした。
夫人は横柄に頷いて答えた。
「ザンラード家の者として恥じない働きをするのですよ」
背筋を伸ばして敬礼をするヘクトールから一瞬だけ鋭い視線が向けられ、思わず目をそらした。信用できない、という思いがひしひしと伝わってきた。
ヘクトール含む聖梟騎士第三小隊がこの場を後にし、その姿が見えなくなるまで見送ると、夫人はようやく宝石店へと足を進めた。タイミングよく宝石店の扉が開かれて、身なりの綺麗な男性が慣れた手つきで夫人を迎えた。
シリウスもそのあとに続いて一歩踏み出したところで、なにか、さほど近くない場所から声が聞こえた。
「――……ぁ。……ど……たの」
まだ幼い子供の声だった。泣いているのだろうか。こころなしか、その声は震えているようだ。
「……ぁ、……じん、ぼ……は……だよ」
視線で声の出所を探ってみると、宝石店と隣店の間にひと一人入れそうな隙間が見えた。店が日光を遮っているせいでその隙間は暗く、シリウスの位置からでは奥まで見ることができなかった。
集中して耳を傾けてみると次ははっきりと聞こえた。
「どこにいるの? ボクはここだよ。ここにいるよ!」
「シリウス!」
ハッとして視界が一気に広くなった感覚だった。
目の前には眉間にしわを寄せてこちらを見下ろしている夫人の姿があった。
「申し訳ございません、奥様」
それ以降、どんなに珍しい物を見ても、どんなに素晴らしい物を見ても、シリウスの心がときめくことはなかった。あの暗い壁の隙間から聞こえてきた子供の声が気になって、普段なら胃が痛む夫人の嫌味も今のシリウスには響くことがなかった。
夫人はこれから一泊、あるいは二泊してから館に戻ることになっている。
ホテルまで夫人を送り届けたシリウスは一息つく間に、使い走りを任された。エスターテ滞在中に夫人が飲む茶であったり、街に入ってきたときに見た屋台でアレを買って来いと馬丁に言われて調達しに行ったりと、とにかくせわしない一日だった。隙があればあの宝石店の壁まで行けたら、と思ったが買い物先は真逆であったし、シリウスの足で行くにも時間がかかった。
「魔物の脅威が迫っているとは思えぬ賑やかさだったわ」
夫人はハーブティーを口にしながら、満足そうにしている。
「奥様も大層楽しそうでございました。あの宝石店でお買い上げになられたという赤いネックレス、大変お似合いでした」
傍らで侍女が相槌を打ち、夫人の相手をしているのをシリウスは部屋の外でじっと聞いていた。勝手に寝ることは許されない。もしかしたらこの真夜中に夫人から遣いを頼まれるかもしれない。そうでなくともヴィクトールから夫人を守るように申し付かっている以上、警護の真似事でもしておかないと、後々面倒なことになることは間違いなかった。
「さて」
席を立つ音がして、シリウスは無意識に身構えた。
「そろそろ休むわ。お前たちも早く御眠りなさい。魔物の脅威が迫っていると聞いてはいたけど、街の様子を見る限り滞在期間を延ばしても大丈夫そうね。シリウス」
「はい、奥様」
「ヘクトールとヴィクトールに滞在日を三日延ばすと伝えておいてちょうだい。……あぁ、そういえばこのホテルにも、アレがあったわね」
夫人は何か悪いことでも思い浮かんだかのように怪しい笑みをたたえている。
「シリウス、魔導式手紙送信機で朝までにこのことを伝えておいてちょうだい」
魔導式手紙送受信機とは、この世界においける生活などを支える道具・機器の一種だ。詳しいことはシリウスも知らないが、魔法の不思議な力で、相手の魔導式手紙送受信機へ文字や映像を送ることができる便利な代物だ。
しかし、シリウスは生まれながらにして魔導具を使うことができなかった。
使い方がわからないのではない。そもそも魔導具が反応してくれないのだ。王都ではこういった魔導具が数多く運用されているらしく、例えシリウスがザンラード家当主の継承権があり、王都の学寮に入ったとしても生活すらままならない可能性があった。
そんなシリウスに、夫人は、彼が魔導具を一切使えないことを知りながら無理難題をよこしてきたのだ。
「さて、私は部屋で休むわ。それじゃ、よろしく頼むわね」
こんな難題は一度や二度ではない。館の中では誰も手を貸してはくれないが、ホテルならばロビーにいる者に声をかけて手伝ってもらえばいい。夫人の根回しがされないうちに済ませようと思い、シリウスは足早に部屋を後にした。
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