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 夫人に指示された直後に行動したことで、問題なく難問をクリアすることができた。ホテルマンも最初は不可解な顔でこちらを見ていたが、シリウスが本当に魔導具を使えないということを知ると、快く手伝いをしてくれた。  念のため、夫人が貸切にしているフロアを見て回った。皆言いつけ通り床についたのだろう。どの部屋も真っ暗で、廊下の薄暗い灯のみがゆらゆらと揺れていた。夫人の寝室前には館から連れてきていた護衛人が立っていた。彼はシリウスに気がつくと、しっしっと動物でも追い払うように手を振って見せた。  こうして、シリウスの今日の仕事は全て終わった。  ザンラード家の体裁もあったため、今日はシリウスにも個室が与えられ、ちゃんとしたベッドで寝ることができた。シリウスにとってベッドで眠るということは大変贅沢なことであった。床の冷たさと硬さが伝わってくるような敷布団ではなく、ふかふかのベッドで眠ることができる。食事もいつもより多く貰えたし、もう何も文句を言うことはあるまい。  ベッドに身を沈めると、すぐに睡魔が寄ってきた。  このまま溶けてしまいそうな感覚に、シリウスは体を預けた。  黄金の林檎が実った樹木、それを守るように佇む錆びた竜、終わりのない草原、太陽の光に包まれた虹色のうつくしい世界。  嗚呼、またこの夢だ。  視界の淵が水彩のように滲んでいて、ここが現実でないことがすぐにわかる。ひどく体がだるく、ただひたすら不思議な光景を眺めることしかできない。  錆びにまみれた竜と目が合う。竜の目は火の粉のように煌々としていてこちらをじっと見つめている。急かされるこの感覚。心臓の脈が早まっていく。そうして幾分か経ち、何もできずただその場に在る事しかできない僕に飽きたのだろう。竜はそっぽを向くのではなく、とうとう姿を消してしまった。  今まで見たことがない展開に、シリウスはうろたえた。  途端、背中を強く押される感覚があった。気づけば錆竜はシリウスの背後にいて、犬のようにグイっと鼻で体を押してきたのだ。  いつも同じ位置、同じ視線だったものが少しだけ動いた。その僅かな歩みで、地平線の向こうに何かが見えた気がした。人だろうか、物だろうか、わからない。だけど無視してはならないような気がしてならなかった。  もう一歩、もう一歩進めば何かがわかる気がする。  そうして気だるい体を動かそうとして――、うつくしい光景が闇に溶けていった。  目を開けると、やさしい月の光が窓から差し込んでいた。あたりは暗く、まだ真夜中のようだった。月の位置からして、寝付いてから数刻も経っていないようだ。  シリウスは身を起こして、大きく息をついた。息をはき切って、さらに鼓動が速くなったのを感じた。  夢から覚めてもなお、胸の高鳴りは消えない。  今回はいつもの夢と違った。最後に見えた、あの地平線の先にあったものは一体何だったのだろうか。シリウスは目がいい方であるが、あれほど遠くてはわかならない。そしてあの錆びた竜が動いた。自身の背中を押して、遠くにある何かを見せようとしてきた。  わからないことだらけ、考えても答えは見えそうにない。  完全に目が冴えてしまって、せっかくのベッドだというのに眠れそうになかった。  娯楽に触れる機会が皆無であるシリウスにとって、時間を持て余したときに行うことは決まって想像をすることだった。もし自分がこの街で生まれて夫人たちとは無縁の人間だったらどのような生活をしていた、だとか、そういった具合である。街のすべてを見回ったわけではないが、住むならば街に入って来た時に通ったあの通りがいいだろう。あそこは宝石店があった大通りと違って親しみやすい雰囲気があったし、何よりおいしそうな料理を売っている出店がいくつもあった。宝石店の周りはドレスショップだとか、帽子店だとか、シリウスは合わないだろうと考えた――そこまで想像を膨らませて、シリウスは昼間聞いた幼子の声を思い出した。  あの子はどうしているだろうか。これから雨季に入るところではあるが、夜はまだ冷える。無事、親元に帰れたのだろうか。  いつものシリウスなら、そこまで気に留めなかっただろう。勝手に行動したことで夫人から酷い仕打ちをされるのではないかと、怯えて過ごすだろう。  しかし今のシリウスは違った。なぜか放っておいては行けない気がした。そしてあの錆竜の夢。今日に限っていつもと異なっていたのんが、完全に無縁であるとは思えなかった。エスターテに来ることができるのは、もしかしたらこれが最後かもしれない。ここで夫人の折檻に怯えて何もしなかったら、ひどく後悔するように思えた。 「――……行こう。」  シリウスは思い切ってベッドから降りると、静かに扉を開けた。廊下に人の気配はない。それどころか誰かが起きている様子もない。忍び足で階段を降りた。ロビーも消灯しており、正面口は空いていなかった。  シリウスは一階の窓をそっと開けると、誰にも見つからないようにホテルを抜け出した。  まるで月光が祝福しているかのような夜だった。  大通りの両脇に並ぶ建物にはひとつも明かりがついていなかった。誰もが寝静まり、起きているのは月とシリウスと街灯のあかりだけだった。  石畳を蹴って進む。目指す場所は、昼間に夫人と訪れた宝石店傍の僅かな隙間。  夜が深まっているからなのか、それとも魔物を恐れているのか。都会に訪れたことのないシリウスには、なぜ明かりが灯っていないのか判別ができなかった。  ひとりの夜を満喫できるほど歩いて、ようやく件の宝石店についた。やはりこの通りにも明かりは灯っていない。  シリウスは傍にある隙間を覗いてみた。  細い長方形のような形になっていて、月光さえも届かない暗闇が続いていた。これではあの子供がいるのかどうかもわからない。シリウスは奥まで届くように、されどこの空間以外に響かないほどの声で問いかけてみた。 「誰かいるの?」  返事はない。試しに胸を壁に沿わせるようにして奥の方へ進んでみるが、そこには隣店の荷物だろうか、木箱や麻袋しか見つからず、子供の気配はなかった。  きっと、親と一緒に家に帰ることができたのだろう。そうであることを願って、シリウスは隙間から抜け出した。とんだ杞憂に終わったものだ。だが、こんな都会をたったひとりで自由に歩けたことが嬉しかった。館は息がつまる。シリウスにとって牢獄のようなものだった。誰もがシリウスを監視し、夫人の機嫌を損なわないようにする。誰からの監視の目もない、誰の機嫌も取らずにいられるとは、なんて素敵なことだろうか。  できることならば、このままどこかへ行ってしまいたい。  だが、シリウスにそこまでの勇気はなかった。ここまで冒険したのだ。もういいだろう。でもいま、もしうまく身を潜めて逃げることができたら?  「解放される」  夫人からの折檻も、義弟たちの嘲笑も、父親のあのモノを見るような目からも、すべて解放される。  でも、見つかったら? この街には今、多くの衛兵が配置されている。夫人が帰路に着く頃にはヘクトールたちも戻ってくる。そしてここはザンラード領。ただの使用人が逃げ出したくらいでは大事にはならないだろうが、シリウスはそこらの使用人とは訳が違う。ザンラードの血を引く者だ。ヴィクトール達は、シリウスを外部の人間がザンラードの血縁者であることに気づかない程度の場所……つまり自分たちのテリトリーに置いておきたいのだ。ザンラード家にとって、シリウスは当主が犯した恥の塊である。シリウスが逃げたとなれば、ヴィクトールたちは追っ手を放つ可能性がある。ザンラード領がどんな地形をしているか、どこにどんな街や村があるのか、シリウスは詳しくは知らない。地の利がない挙句、逃亡先での計画もない。  そんな逃亡劇が、うまくいくとは限らない。  気づけば、シリウスの足はホテルへと向かっていた。  昼に見たあの関所の衛兵の数。あれが、さらにこの街の入り口五か所分にいて、街の中を巡回する衛兵がいるのだと考えると、どうしても無理であると感じた――そこまで考えて、シリウスは思わず足を止めた。 「……おかしい」  周囲を見渡すが、街灯の明かりしか着いていない。細かく言えば、衛兵たちが巡回に使うであろう照明具(ランプ)の明かりさえ見ないのだ。この街の造りは、六ケ所の関所から真っすぐ中央に道が伸びている。シリウスは目がいい。目を凝らせば関所に設置されている照明が小さく確認できたが、人の気配までは確認することはできなかった。本来ならば、シリウスが夜の巡回をしている衛兵に見つからず、どうどうと道の真ん中を歩いて宝石店までたどり着くのは不可能であった。だがシリウスは、ここまで誰とも遭遇していない。  ふと、大きく風が吹いた。体が宙に持っていかれそうになるのを大勢を落として抗った。月光に伸びていた自分の影が大きく翳った。  反射的に振り向くと、大きな翼を広げた獅子の顔を持つ怪物が双眸を爛々と光らせ、鋭く伸びた爪を振り下ろそうとしていた。  
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