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1-4
月を背負う獣が、襲い掛かろうとしている。
すべてが、ひどく、遅く感じた。
やっぱりホテルに籠っておけばよかった。ひとりで勝手に行動したから、罰があたったんだ。
走馬灯のように駆け巡っていく記憶は、なんとも薄い色彩で、冷たいものばかりだった。
せめて、あの夢のような、色のついた日々が、送れたのなら。
鉤爪が容赦なく振り下ろされる。あと少しで爪先がシリウスに届く――そのときだった。
「ここであったが百年目! ボクの攻撃を受けるがいいー!」
視界の端から、怪物に向けて黒い塊が一直線に飛んできた。よく見ると、それは目を黄金色に煌めかせた、黒い子猫だった。猫とは思えない速さ、跳躍の大きさに呆気に取られる。
しかし。
「ギニャッ」
シリウスに振り下ろれようとしていた鉤爪が猫へとむけられる。危ない、と思っていた時には遅く、黒猫の攻撃はいとも簡単に受けとめられる。そうして、ボールを投げるかのように、街の中央に聳え立つ教会へと放り投げられた。
「にゃー……っ!」
猫は教会前にあった噴水のオブジェを砕き、派手な音をたてて教会の壁を打ち破っていった。あたりが暗いのと、巻き上がる砂埃のせいで、猫の安否はわからない。
「グルル……」
獅子の頭を持った怪物は、狙いを先ほど吹っ飛んでいった猫へと変えたようだ。シリウスに見向きもせず、猫の跡を追って教会へと走っていく。
今なら逃げられる。あの猫が気を引いていくれている今なら――。
逃げようと身じろぎしたところで、ふと、あの猫が人の言葉を発していたことにようやく気付く。そして、その猫の声が昼間聞いたあの声と酷似していることにも芋づる式に脳内で繋がっていった。
あの猫はきっと、昼間に聞いた声の主だ。子供が親を求めて泣くような、そんな声で自身の居場所を訴えていた。なぜか、他人事とは思えない。でももし気のせいだったらどうする。夫人の折檻を受けるかもしれない。
だが、あの猫を放っておくことはできない。なぜだかはわからない。それにあの猫は、こんな自分を助けてくれた。あの華奢な体で、あんな迷子のような泣き声をあげていたと思われる子猫が、自分より特段に大きい相手に全力でぶつかりに行っていた。恐れることなく、真っすぐ。あの攻撃を受けて生きているかわからない。
怪物は既に教会に到達しており、その器用な前足で黒い塊を抑え込もうとしていた。しかし、何か苦戦しているように見える。驚くことに猫が抗う声が聞こえた。
「ボクに触るな! やめろっ、離すにゃーっ!」
子猫は生きていた。
ここで逃げたらきっと後悔する。その後悔と、見捨てた罪悪感を背負って、またあの生活に戻るのだとしたら――、今後悔しない方を選ぶべきだ。
そう決意すると、不思議と体が沸き立った気がした。心臓が高鳴り、まるであの夢でも見ているような感覚に陥る。
ふと、咆哮が夜空に響き渡った。シリウスはなぜか直感的に、この咆哮が、あの錆竜のものであると理解した。
――空を見上げると、一縷の星彩が流れた。
それは南の空から尾を引いて流れてくると、シリウスの前に稲妻のように落ちてきた。あまりのまぶしさに目を閉じると同時に、風圧がシリウスの足元を攫う。しりもちをついて再び目を開けると、目の前には錆にまみれた剣が黄金色のもやを纏って石畳に突き刺さっていた。
考えるより先に体が動いた。
シリウスがその剣を抜くと、剣もまたそれに呼応したかのように錆びがはじけ飛んでいった。これであの怪物を斬れる。シリウスは剣を握ったことがなかったが、不思議なことに体がその方法を知っていた。まるで、何度も練習してきたかのように。
石畳を蹴って一気に怪物との距離を詰めた。普段のシリウスからでは考えられない、聖梟騎士団にも劣らぬ身体能力だった。剣を振り下ろして片翼を、切り上げてもう片翼を切り落とした。これでもう怪物は逃げられない。痛みに吠え、怒り狂った獅子の顔を見ても、シリウスは動じなかった。怪物はシリウスを追い払おうと鉤爪を振り下ろすのを難なくいなし、体勢を崩させた。そうして空いた腹に一閃を刻む。
怪物の悲鳴が街中に響く。しかしこれだけ攻撃しても怪物はしぶとく四肢で体を支えて立ちあがる。ふと、怪物の背中に残されていた切り落とされて使い物にならなくなった翼が小さく動いているのが見えた。かと思えば、それは一気に天へ伸び再生を果たした。
「ソイツは一気に仕留めないと何度も復活するにゃ!」
いつの間に怪物の手から逃げ出したのだろうか。黒い子猫がシリウスの後ろで叫んでいた。
「ボクは今魔力が枯渇中にゃ。ヤツの狙いはこのボク。このボクがアイツを引き付けるから、オマエはその剣で一発で仕留めるにゃ!」
猫はシリウスの返事も聞かず、怪物の前に飛び出していってしまった。
方法は――問おうとしたところで、そのやり方に気づいた。奇妙な感覚だ。やったことがないのに、覚えのあるこの感じ。
猫は怪物の一撃を華麗な身のこなしで躱すと、シリウスが構える目の前へと怪物を連れ出した。
――シリウスの剣を握る手に力がこもる。
全ての気を剣に向けると、剣は熱を持ち始めた。金色の光を帯び、兵士らが持つような一般的な剣の大きさから、光の粒子によって構成された常人では扱えぬほどの大剣へと姿が変わる。
子猫を追っていた怪物が目が、シリウスをとらえた。シリウスもまた、怪物の全体を捉えた。
「うおおおぉぉぉ――っ!」
気迫と共に大剣を薙ぎ払った。怪物は光の中へと消えていき、街に爆発のような音が響き渡った。
大剣はすぐに光を失い元の形に戻った。
怪物の姿はどこにもない。殺気も向けられていない。
「倒した……のか……?」
シリウスは安堵からか、それとも緊張から解放されたのか、その場にへたりこんだ。見渡すと激しい戦闘が行われた跡が生々しく残っている。本当にこれを自分がやったのか?
「オマエ、よくやった。褒めて遣わすにゃ」
気づけばあの子猫がてちてち歩いてくるところだった。
「最後の攻撃で、危うくボクの玉体に気が付くところだったが今回は見逃してやる、にゃ」
「はぁ……ありがとうございます……」
反射的に頭を下げてしまったが、よく考えればこの状況は完全におかしい。
だって、猫が。
「あのっ」
「待て、その問いは後にするにゃ」
猫は肉球をこちらに向けて言葉を制した。とがった耳が器用にピクピクッと動き、大きな金色の眼があたりを見渡した。視線をたどっていくと、寝間着姿の人々が何事かと店や家から出てきており、ぽつりぽつりと建物に明かりが灯っていった。
「騒ぎが落ち着いてニンゲン共が巣から出てきたようにゃ。場所を変えて話すにゃ」
そう言うと猫は落ち着いた様子で人の気配がまだ薄い方向へと足を進めていった。シリウスも立ち上がろうとして、剣の存在を思い出した。どうしようか一瞬悩むが、手放してはならないような気がして一緒に持っていくことにした。ふと、怪物が最後に立っていた場所を見ると、光沢を放つ黒い輪っかのようなものが落ちていた。それは歪な彫刻が刻まれている。
輪っかに気を取られていると、遠くから猫が鳴く声が聞こえた。
シリウスはハッとして、闇に溶けそうな色をした子猫を必死に追いかけるのだった。
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