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「ここなら誰も来ないと思うにゃ」  壁を乗り越え、屋根を飛び越え、どこからどう見ても人の道ではない道を超えて、ようやく目的地に着いた。そこはやはり猫が集まりそうな、狭く、暗い路地裏だった。 「まずはオマエ、その剣を隠すにゃ」  そう言って、猫は近くの荷に被せてあった麻布を器用に口でひっぱると、シリウスの足元に置いた。鞘のない剣をくるむのは難しく感じたが、光を失った剣は不思議と麻布を破ることなく、大人しくくるまれてくれた。 「改めて礼を言うにゃ。本来のボクの力なら、あんなヤツちゃちゃっと倒せたはずなのに……今日に限って魔力が切れていたにゃ」 「魔力?」  そういえば、怪物と対峙していた時「魔力が枯渇している」と話していた。 「きみ、魔法が使えるの?」 「にゃ」 「じゃあ人の言葉を話せるのも魔法?」 「それは違うにゃ」  言葉を話せて、魔法が使える猫。  考えるだけで頭が痛くなるような存在だ。理解に苦しんでいると、猫はふふんと上機嫌に笑った。 「猫なのに、なぜ魔法が使えて、ニンゲンの言葉を操れるのか気になるのだろう。うんうん、わかるぞ。初めて会ったニンゲンは皆決まって驚くにゃ」  いまさらながら、なんだかとても偉そうな猫だった。自分が次期当主だということを鼻にかけて見下すような態度をとる二番目の弟(王都の学寮に入っている方)と、どこか通ずるところがあるような気がしたが――、不思議と嫌悪感はなかった。  猫は、猫だというのに、まるで人間のように表情がわかりやすかった。再びふふん、と髭を上げて得意げに話す。 「なぜボクが魔法を扱えて、なおかつニンゲンの言葉話すのか。それは――……」 「それは?」 「ボクが」 「ボクが……?   「王様だから!にゃ!」    静寂。路地を吹き抜ける風が少し肌寒かった。 「えぇっと、王様なの? きみ」 「そうにゃ!」 「どこの?」 「にゃ?」 「どこの王様なの?」  そう問いかけてみると、猫は固まってしまった。そうしてじりじりと汗をかき始めたかと思えば、ふいっと顔を背けてしまった。 「じ、じつは……、記憶がなくってにゃ……」 「記憶がない?」 「そうにゃ。ボクがなにかの王様で特別であるってことと、誰かを探していたってこと以外なーにも覚えてない、にゃ」 「名前も?」 「にゃ」 「家族も?」 「にゃ。あ、でも水と大きな光は苦手だにゃ。あと、ボクはもっともーっと強い、それは覚えているにゃ」  そういえばこの猫、いつもならあの怪物を簡単に倒せる、そんなようなことを言っていた気がする。半信半疑で問うてみる。 「なら、この街の近くにある村が壊滅したっていうのは」  猫はシリウスの言葉を遮って否定した。 「それはボクじゃなくて、さっきの魔物だにゃ。ボクは遠ーいとこから荷台で運ばれてきたにゃ。それで着いた先があの村。アイツはどからか飛んできたと思うと、ボクを見つけて急に襲い掛かってきたにゃ」 「それじゃ村の人は――」 「……悔しかったにゃ。その時既にボクの魔力はゼロに等しくて何もできなかったにゃ。強いて言うなら、ヤツの頭に思いっきり突進して少しだけ気絶させて、その間にこの街へ逃げてきたにゃ。村人はたぶん、気絶から覚めてボクを探すために暴れた魔物のせいで……」  子猫の耳が悲しげに垂れる。嘘をついてるようには見えなかった。 「街に衛兵がいなかったのも、もしかして」 「多分あいつの仕業にゃ。ヤツは腹を空かすとなんでも喰らう」  猫は自分のせいで多くの人が犠牲になったことについて罪悪感があるらしい。村の惨状や、衛兵達の行方を告げるその様は懺悔しているかのようにも見えた。 「それにしても、オマエ、ボクを見てもちっとも怖がらないな」 「え?」 「だってニンゲンは黒い猫を嫌うのだろう? あっちへいっても、こっちへいっても、ニンゲンはボクを追い払うし、ひどい奴なんか熱湯をかけてきたんだぞ。今だって、オマエ、ボクと話していても逃げるどころか怯えもしないじゃないか」  シリウスは全く意識していなかったが、確かにこの国には黒猫を忌み嫌う文化があると聞く。シリウスが知る世界とは、ザンラードの館内であるため詳しくは知らないが、どうも黒猫は魔女の使い魔なのだという。  その昔、この国に厄災を運んだ魔女の象徴であるがゆえに、今でも黒猫を嫌う習慣があるらしい。誰もが知るおとぎ話であるが、シリウスはこれをただの物語としか認識していなかった。だから実際にこの黒猫から話を聞いて、黒猫を嫌う人が想像以上にいることに驚いた。  だが、そう考えると自分も黒猫と同じなのかもしれない。  ただそこに在るだけで邪険にされ、理不尽に不満をぶつけられて、本当の居場所なんかない。それを受け止めて過ごすしか、自分には道がなかった。 「君はあの怪物から僕を助けてくれた。だからそんな迷信よりも、君を信じるかな」 「……その言葉、本当にゃ?」  目を真ん丸にしてぽかんとこちらを見る黒猫は、どこか信じられないといった様子でこちらを見ていた。 「本当だよ。だって君がいなかったら僕はあのとき死んでいたし。それに君は、自分よりも大きな相手だというのに構わず突進していったじゃないか。僕には、かっこよく見えた」  途端、黒い子猫は、花が咲いたかのようにぱぁっと明るい笑顔になり、ご機嫌そうに尻尾をゆらりと揺らした。 「オマエ、見る目があるじゃないか」 「はぁ……」 「よし! 決めた!」  黒猫はそばにあった木箱の上にひょいと飛ぶと、その上にちょこんと座り直した。地面に座るシリウスよりも若干上からの視線になり、自然とシリウスは子猫を見上げる形になった。猫はちょっとだけ顔を上に挙げると誇らしげに言った。 「聞いて驚け、そして誇るがいい! オマエをこのボクの供として、ボクの旅に同伴することを特別に許可する!」 「旅? 君の?」 「そうにゃ! ボクの記憶と、ボクが探しているモノを見つける旅にゃ!」 「探しているモノって、あの昼間鳴いていた……」  すると子猫が固まった。 「オマエ……昼間、ボクの声を聞いて……っ」 「子供が泣いている声がしたから迷子かなっと思って……昼間は夫人のそばから離れられなかったからこうして夜に来たわけなんだけど……うわっ」  そこまで言うと子猫は木箱を蹴って跳躍し、シリウスの顔面へと飛び込んできた。そしてその短くも鋭く光る爪をこちらに向けてきたので、とっさに子猫の脇腹をつかんで攻撃を阻止した。 「忘れるにゃー! ボクが! このボクがニンゲンの子供みたいに泣くわけがないにゃー! 忘れるにゃー!」 「いや、忘れろと言っている時点で、君が泣いていたことになるんだけど……」  子猫は宙に浮いたまま前足をしっちゃかめっちゃか動かし、宙を掻いていた。 「うるさい! とにかく!」  ビシッと肉球でシリウスを指される。 「オマエは今日から、ボクの供になるにゃ!」  この猫と、どこか遠いところまで旅ができたらどんなに楽しいだろう。だが、シリウスは縛られた身だ。 「でも僕、帰らないと……」 「にゃ? オマエ、家族がいるにゃ?」 「いや、家族というというか、なんというか……」 「それはオマエにとって大切なものなのか?」 「大切な物……ではない、かな。だけど、僕がいなくなったら大変なことになる。家の人たちが追ってきて、僕を捕まえて、そしたら僕はまた酷い目に合わされる」  シリウスの脳内には、暗い地下牢で柵越しにシリウスを嘲笑っては唯一の光源(ロウソク)と共に去っていく夫人の姿があった。鞭を手にした夫人の姿があった。熱した鉄を持って近づいてくる夫人の姿があった。どれも酷い苦しみを持つ記憶ばかりで、シリウスは想像の中でも逃れられずにいた。  「だったら、ボクがオマエを守るにゃ」  そのたった一言で、夫人の姿が消え去った。 「供や家臣を守るのも王様の役目。オマエに意地悪するようなやつは、ボクが許さないにゃ」  子猫の目は自信にあふれていた。確かに見た目は小さい仔猫だが、俊敏な身のこなし、力強い攻撃、そして人の言葉を話せるだけの知性がある。ふと、あの意地悪な夫人が、この子猫一匹にてこずる場面を想像して、ふっと笑みがこぼれた。  この猫ならば、きっと大丈夫だ。 「わかった。君の供として、旅に連れていってくれ」 「よし! なら、ボクと契約するにゃ!」  仔猫が地面を数回前足で叩くと、二人の足元に発光する円が現れた。 「えっ、なにこれ」 「契約」  猫が告げた言葉が、二人の間の宙に刻まれるようにして記されていく。それはシリウスも見たことがない、正真正銘の魔法だった。 「汝、我の記憶を取り戻し、探しモノが見つかるその時まで、我の供として在ることを誓うか?」  シリウスは意を決して答えた。 「――誓います」 「我はその対価として、汝をいかなる敵からも守ることを誓おう。契約は破られることあらず。此れなるは絶対魔法、記せ、結べ、星を見つけるその日まで――っ!」  宙に浮かんでいた文字が金色に光ったかと思えば、それは二つの光の玉に転じた。ひとつはシリウスへ、ひとつは仔猫へ浮遊すると、それぞれの額へと消えていった。 「これで契約は完了にゃ」  仔猫の小さな額には、不思議な文様が毛並みに沿って浮かんでいた。 「ボクの額と同じ模様が、オマエの額にもあるはずにゃ」  近くの家の窓をのぞき込み、長く伸びている前髪をあげてみると、言われた通り仔猫と同じ文様が額に浮かんでいた。 「これが契約の証。契約は絶対に破られることはないにゃ。もしオマエが勝手に契約を破ろうとしたところで、抗うことはできないにゃ」 「どうして?」 「絶対魔法だからにゃ。この魔法はゼッタイ、ぜーったい破られない魔法にゃ。抗おうとしても、オマエはボクの元に戻ってくるにゃ。これはそういう魔法にゃ」  シリウスにはよくわからなかったが、とにかくこの猫と契約しているうちは従うざるを得ない、ということらしい。 「それじゃ、そろそろここを離れるにゃ。ボクが探しているモノはここには無かったし、騒ぎが大きくなったにゃ」 「待って」  旅立つ前に聞いておくことがある。 「君のこと、何て呼べばいい? 名前がないんでしょ?」 「なら、オマエがボクに名前を授けるにゃ」 「ボクが?」 「にゃ。ボクが真の名前を思い出す時までの名前を、ボクに授けるにゃ」 「なまえ、といっても――」 「オマエがボクを何て呼びたいか考えればいいにゃ」  シリウスはしばらく考えて、王様という言葉から連想した言葉を口にした。 「……王様(クルル)」 「クルル……クルル!」  猫は嬉しそうに新たな名前を反芻させると、尾をくねらせた。 「次はオマエにゃ。オマエの名前を教えるにゃ」 「ボクは、シリウス・ザン――」  ザンラード、と姓を言いかけてやめた。これから自分は家に縛られることなく、この猫と旅をするのだ。門出にこの名前はふさわしくない。 「僕はシリウス。ただのシリウスだよ。これからよろしくね、王様(クルル)
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