あの屋根裏の遠い光(「果物」「小母さん」「屋根裏」)

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あの屋根裏の遠い光(「果物」「小母さん」「屋根裏」)

 インターホンが鳴って、お母さんが玄関に向かった。わたしはじっと物陰に隠れてそれを見ている。 「これ、おすそわけです。実家が農家をやっててねえ。こうして毎年送ってくるんですよ」  扉の外に、知らないおばさんの姿が見える。手にはたくさんのビニール袋を提げていて、中にはりんごや柿がいっぱい詰まっていた。  お母さんがそれを受け取って、軽くあいさつをして扉を閉めようとする。その時おばさんが「あら」と声を上げて、 「お子さんがいらっしゃるのね。こんにちは」 と、わたしを見てにこにこ笑った。  わたしはどうしたらいいかわからず、スカートのすそをぎゅっと握りしめて、おばさんを見つめ返した。 「もしよかったら、ぜひ私のおうちにいらっしゃい。すぐ近くなの」  いつでも待ってるからね。そう言い残しておばさんは帰っていった。  その頃のわたしはまだ小学生だったから、おばさんのその言葉をそのまま受けとった。おばさんがそう言ってるから、今度おうちに行ってみようかな。そう思った。  小学生のわたしがそうしてくれて、本当によかったと思う。  次の日、わたしは学校に行った。  わたしが教室に入ると、一瞬あたりがしんとして、それからみんなはひそひそと私を見て何か言いあっている。いつものことだった。わたしは自分の席に向かう。  机には悪口がたくさん書かれていて、わたしは掃除用具入れからぞうきんをもってきてそれを拭きとった。  授業中、ぼんやり窓の外を見ていると、背中に何かが当たった。続いてくすくす笑う声がする。私は気にしないようにして、窓の外、誰もいない校庭を眺めていた。頭にあるのは一つだけだった。早く学校が終わってほしい。早く外に出たい。  放課後になって、私は逃げるように校門を飛び出す。  いつもなら、学校のあとは駅向こうの公園か町の図書館に行って、そこで夜まで時間を過ごす。あんまり早く帰るとお母さんが怖い顔をするので、できるだけ遅くにひっそりと帰るように気をつけていた。でも今日は、ブランコにずっと座っているのも、立ち読みをして足が疲れたのを我慢するのも、なんとなく気が進まなかった。  そういえば、昨日来たおばさんは「いつでもおいで」って言ってたような。わたしはおばさんの家に行くことにした。  わたしの住んでいるアパートの近く、住宅街の中をうろうろしていると、声をかけられた。 「あら、こんにちは。来てくれたのね」  垣根の向こうに、おばさんの姿が見えた。わたしはすこしためらいつつも、門の扉を押して中に入る。  おばさんは庭のお花に水やりをしていた。ホースを片付けながら、 「さあさ、入って入って」 と、わたしを家に上げてくれた。  家は木でできていて、ちょっと古かった。おばさんは、板敷きの廊下をきしきし言わせながら歩く。私もそれについて行った。  ふすまが開くと、そこにはちゃぶ台とテレビのある部屋だった。  おばさんは座布団を出して、わたしをちゃぶ台の前に座らせる。あまりかいだことのなかった畳のにおいに、わたしはきょろきょろとあたりを見渡した。  おばさんが奥からやってきて、あんころもちのお皿をちゃぶ台に置いた。 「今はこんなのしかないけど、よかったら食べてね」  あまりの甘い香りに、私はその言葉を聞くやいなや、あんころもちを手づかみで口に入れた。ものすごくおいしかった。たまらず二つ目、三つ目と食べていく。  気づけば、ぜんぶを食べ終わっていた。しまった。怒られないだろうか。恐る恐る様子をうかがう。おばさんは、満足そうな顔をして、何も言わずに見ていてくれた。わたしはほっとして息を吐いた。  「ゆっくりしていきなさい」と言ってもらったので、わたしはそのままおばさんの家で過ごした。テレビをみたり、お手玉やおはじきを借りて遊んだりした。  夕暮れになると、おばさんはわたしを家に帰そうとした。 「そろそろお帰り。お母さんも心配するわよ」  そうだ、家に帰らないと。そう思ったとたん、わたしの目から涙がこぼれ出した。 「いや……かえりたくない、もっとあそびたい」  おばさんは困ったように笑って、わたしの頭をやさしく撫でた。 「そうね、じゃあまた明日もいらっしゃい」  そう言ってもらっても、わたしはなかなか泣き止むことができなかった。ようやく落ち着いて、わたしはおばさんに見送られて家を出た。  帰り道の先、沈む夕日がまぶしい。わたしは立ち止まりそうになって、名残惜しさを振り切るように、走り出した。  それからわたしは、毎日のようにおばさんの家を訪ねた。  おばさんはわたしの来るたびに、おいしい和菓子を用意して待っていてくれた。いつでもわたしの好きなように遊ばせてくれたし、時には一緒に遊んでくれたりもした。帰るときには必ず玄関先まで出てきて見送ってくれた。  ある時、わたしが泥まみれの体操服を持って帰ってくると、おばさんは庭の蛇口で体操服を洗ってくれた。ごしごしと洗って干して、きれいになった体操服をわたしに持たせてくれた。そして私の手を握って、何度も言うのだった。 「本当に、いつでも来ていいんだよ。おばさん、いつだって待ってるからね」  体操服はせっけんのにおいがした。体育の授業の前、そっと顔をうずめると、少しだけ安心できた。  ちゃぶ台の前に座り、テレビをみながらお菓子を食べる。桜餅の葉っぱをとりながら、ふと顔を上げると、テレビの横の棚で何かが光った。  近づいて見ると、それは写真だった。きれいな風景のもあれば、人が写っているのもある。わたしは写真立てのひとつに目を留めた。そこには若い女の人と男の人、それに小さな男の子が立っている。たぶん入学式の写真だ。男の子はすこし緊張した様子で、女の人と手をつないで写真の中にいた。  おばさんがやってきて、写真をみつめるわたしに気づいた。 「なつかしいわね」  おばさんはそう言って目を細めた。  わたしは写真の男の子について聞いてみた。同じくらいの年の子だから、もしかしたらお友達になれるかもしれない。  おばさんは優しく笑って、でも何も答えてはくれなかった。  わたしはおばさんのおうちが大好きだった。中でも一番好きだったのは、屋根裏部屋だ。  ある時おばさんは、とっておきの秘密を教えるように、わたしを家の奥に案内してくれた。狭い階段を上ると、そこには小さな空間があった。奥に本棚があって、何枚かの毛布がたたんでおいてある。明かりは電球がひとつぶらさがっているだけで、それでも本を読むには十分だった。  わたしはその屋根裏部屋で、ひとり本を読むのが好きだった。おばさん家の本は古いものが多くて、固い表紙の文庫本や、重たくて大きな図鑑、分厚い全集本なんかもあった。ページを開くと、ところどころ黄色くなっていたり、変わったにおいがしたりで、そんなところもなんだか心地よかった。毛布にくるまって、お話の世界に夢中で入り込んだ。そして窓から西日が差すころになって初めて、ずいぶんと時間が過ぎたことに気づく。そんなことを何度も繰り返した。幸せな時間だった。  その日もわたしは、屋根裏部屋で本を読んでいた。  西日がページの上に落ちて、わたしは本を閉じた。屋根裏部屋の入り口に、おばさんがいた。もう帰る時間よと、わたしを呼びに来たのだろう。  おばさんは、珍しくあまり笑ってはいなかった。どうしたのだろう。わたしがおばさんの顔をじっと見つめていると、 「ねえ」  いつもより少しだけ低い声で、おばさんは言った。 「帰りたくない、よね?」  わたしはその様子を不思議がりながらも、素直に答える。 「うん。帰りたくない」  おばさんはちょっと真を置いて、やがてはっきりとした声で、 「うちの子にならない?」  そう言った。  わたしはその言葉の意味がよくわからなかった。でも、いつもとちがう、固く張り詰めたようなおばさんの声。わたしはほんの少しこわくなった。 「おばさん。もうわたし、帰らなきゃ」  わたしは顔を伏せがちにして、おばさんの横をすり抜けて階段を下りた。  その日、わたしが帰るとき、おばさんは玄関から見送ってはくれなかった。  そのことがあってから、わたしはなんとなくおばさんの家に入りづらくなり、しばらく行かないままでいた。  そうしているうちに、わたしの家では引っ越しをした。新しい学校ではわたしはいじめられることはなかった。中学に上がると、友達も何人かできた。少しだけ、息がしやすくなった。  ふとした時に、おばさんのことを思い出した。今頃どうしているだろうか。確かめる方法は無かった。わたしはおばさんの名前を忘れてしまっていた。  今となっては分かる。おばさん家にあった写真のこと。あれはきっと、おばさんの家族だ。お父さん、お母さん、小さな男の子。あの家で、わたしはおばさん以外に会ったことはなかった。きっと、そういうことなのだろう。  一人になりたいとき、わたしは文庫本を持って、校舎裏の非常階段を登る。いちばん上の暗がりで、わたしは本を読む。ページをめくっていると、ときどき、一瞬だけ、あの日の光景が重なって見える。屋根裏部屋、電球の明かりに照らされた、黄色っぽくなった本のページ。そしてそれはすぐに見えなくなる。あの家には、もう帰れない。
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