波光よ

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「おまえがこれくらいの時だったかな」  自分の腰のあたりに手をやると、その手を父は大儀そうにゆっくりと振った。 「浴衣を着せて、3人でベースに行ったことがあったんだ」  父が言う『ベース』とは、地元にある米軍基地のことだ。ベースは年に一度行われるイベントの時だけ一般開放される。普段はゲートに閉ざされた向こう側、異国の地に入れる唯一の日とあって、イベントデーは昔から地元のお祭りと同じかそれ以上の賑わいだった。 「あれは何の柄だったんだろう」  そう言って父は首を(かたむ)けながら、ベースの方へと遠く目を向けた。  昔話などしたこともなかった父が、ぽつりぽつりととは言えこんな風に自ら語り出すようになったのは、病を得たここ1年ほどのこと。そんな父が『3人』の時の話を口にしたのはこれが初めてだ。動揺を露わにしないよう、私は密かにこぶしを握って風に顔を向ける。  海沿いの公園は風が強い。すっかり痩せ衰えた父のからだが今にもどこかへ飛んでいってしまいそうな気がしてくるほど、風が強い。  向こうの軍人さんたちとすれ違うと、あまりに大きく分厚いその体つきに驚かされるのだが、若い時の父は子供の目から見て全く見劣りしていなかった。それこそ彼らに肩を叩かれ、「ヘイ、ミスター」とか何とか、親しげに声をかけられている姿が子供心に密かな自慢だった。父は地元で彼ら相手の店を経営していた。  3人でベースに行ったのは多分、一度きり。父のことはなんとなく思い出せるのに、母の姿はなぜか何も浮かんでこない。  華奢な母は何を着ていたのだろう。お揃いで浴衣を着ていたのならいくらなんでも覚えていそうな気がする。だとするとワンピースだろうか。お出かけというと、母は大抵ワンピースだった。  母のワンピース姿が好きだった。ウエストがギュッと絞ってあって、裾にいくほどきれいに広がって、風が吹くとふわりと揺れた。  母と手を繋いで歩いていると、母のワンピースの裾が私の顔を撫ぜていく。くすぐったくて、つい笑ってしまう。そんな私を母は細い腕で抱き上げ、「私の可愛い子」、そう言って頬ずりする。それもまたくすぐったくて、ふたりでずっと笑っていた。  遠い昔のことだ。  母はいない。ある日、突然いなくなった。  後から誰かに耳打ちされたのだか、うわさ話を偶然耳にしたのだか、そんなことも覚えていない。向こうの若い男と、と。本当か嘘かは知らない。父は何も言わなかった。  それからはずっと父とふたりだ。店はずいぶんと前に閉めた。いつの間にかそういう時代ではなくなっていた。 「朝顔だったかなあ。それとも金魚だったか。藍地に白抜きの、昔ながらの柄だったと思うんだが、」 「写真、ないの?」  つい口にしてしまって、あ、と気付いた時にはもう遅い。私だけの写真はあるが、母が写っているものは全て父が処分してしまっていた。上書きするように慌てて畳みかける。 「浴衣は? 私の浴衣、残ってるんじゃない?」 「……そうだな。あるかもな。もし家に帰れたら、一緒に探してくれるか?」  思ってもみなかった言葉にどきりとした。伏せている残り時間を父は悟っているのだろうか。 「いいよ。もちろん。その代わりバイト代はずんでよね?」  無理やり作った私の笑顔に、父は目を細めて笑い返す。 「相変わらずちゃっかりしてるなあ」 「だって父さんの子供だもの」 「そう言えばあの時もそうだった」  父の目が遠くなった。 「浴衣に合わせて草履を履いてたんだが、途中で『足が痛くなった』って言って、いきなり裸足で歩き出して。覚えてるか?」 「んー、なんとなく思い出したかも」 「ほんとか?」  掠れ声で、それでも可笑しそうに笑う。 「『裸足で歩くとケガするぞ』って止めるのに、おまえときたら楽しそうにぺたぺた歩き回ってていつまで経っても言うこと聞かなくて。それで仕方なく『今から最後まで草履履いていられたら帰りにソフトクリーム食べよう』って言った途端、急に『分かった』っておとなしく履いたんだ」 「ちゃっかり、って言うよりそれ、食いしん坊なだけじゃない?」 「まあな、どっちもだろう」 「じゃあ、今日もどっちもってことで、」  そろそろ病院に戻らないといけないけど、その前にふたりでソフトクリーム食べていこうよ。そう言ったら、 「いいのか、食べて」  まだ笑ってる。何を食べても何をしても、もう本気で咎められることはないのを分かっていて、なお笑ってる。 「黙ってれば分からないでしょ。もし怒られるようなら一緒に怒られてあげる」 「いつの間にそんなに優しくなったんだ?」 「失礼な。昔っからに決まってるじゃないの」  笑いながら頬を膨らませた。 「そうか。昔から、か」  笑う目が更に細くなった、と思ったら、 「あ、」  父の指がゆっくりと空を指した。何かと思えば、トンボ。赤トンボが飛んでいる。 「もうすぐ秋か」  早いなあ。ため息のような言葉がほろりとこぼれた。その声を耳にした途端、突然、思い出した。 「柄、」 「ん?」  父が私を見る。 「浴衣。あれ、たしかトンボ柄だった」  だって母さんが言ってたもの。トンボはまっすぐ前にしか進まないから縁起がいいのよ、って。 「そうか」  父の目が一度、大きく瞬いて、それからゆっくり空へと戻る。トンボは海風に流されることなく私たちからつかず離れず飛んでいる。しばらく黙ってふたりで見ていた。 「……縁起がいいものも見られたことだし、そろそろ行くか」 「うん、じゃあ、ソフトクリーム経由ってことで」  ポケットから車のキーを取り出し、そっと父の腕を取る。あんまり細くなっているけれど、それでもたしかに腕は父の体温を私に伝えてきていた。  そういえばあの日も父の温もりを感じながら帰ったのだった。草履を履いているとやっぱり足が痛くて、それでもソフトクリームは食べたくて、痛みを堪えて履いていたら、父が肩車してくれたのだ。肩車からは海が遠くまで見渡せた。父が歩くのに合わせて景色が揺れて見えたのを、風で波立つ海を見ながら思い出す。  腕を組んだ私たちは駐車場に向かって並んで歩く。海風が吹く中ゆっくりと、でも、まっすぐに、前へ。  少し先を、波光に向かって小さな赤が飛んでいくのが見えた。  
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