まよなかのさんぽみち

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まよなかのさんぽみち

 真夜中の住宅街はひっそりとして、まるで別世界のようだった。  家々の明かりは消え、街灯の白い光だけが、行く先を点々と照らしている。  わたしはおねえさんと手をつないで歩いている。お母さんでもおばさんでもないその女の人に、わたしは手を引かれていく。  夜風はつめたく、つないだ手はあたたかい。わたしたちはどこまでだって歩いていけた。  わたしは学校に行けない子だった。  気弱な子どもだったわたしは、小学校の教室になじめなかった。お歌の発表の時にどうしても声が出なくなって、男子たちにからかわれた。それがきっかけで、ますます内にこもるようになった。  三年生にもなるころには、学校に行こうとするとおなかが痛くなったり熱が出て寝込んだりした。不登校の状態になってからは、生活リズムも乱れて、昼間に寝て夜起きていた。放課後に外で遊ぶ子供たちの声を聞くのがつらかったし、夕方に帰ってきて口論しているお父さんとお母さんも見たくなかったから。  ある日、自室で夜中にテレビゲームをしていると、リビングからお母さんの叫ぶ声と、物がこわれる音がした。わたしはびくりとして、そのまま耳をすませて聞いていた。やがてすすり泣きが聞こえてきた。  わたしはいたたまれなくなって、そっと部屋を抜け出すと、玄関から外に出ていった。きっとわたしが家にいるのがいけないんだ、そう思っていた。  気が付いたら、公園の前に来ていた。  家の裏手にあるその場所は、ブランコが二つと水飲み場だけがある小さな公園だ。辺りは暗く、いちばん奥にひとつだけある街灯が、ブランコのあたりをスポットライトのように照らしている。  わたしは行く当ても無くて、その明かりに誘われるままに、ブランコに座り込んだ。これからどうすればいいのだろう。  ちょうどその時、公園に誰か入ってきた。  それは若い女の人だった。女の人はわたしを見ると、にっこりと笑い、そのまま歩み寄ってきた。 「こんばんは。となり、いいかな」  わたしがうなずくと、女の人はとなりのブランコに座った。かすかに甘いシャンプーみたいな香りがした。 「今日は月がきれいだよね」  そう言われて、わたしはふと夜空を見上げた。たしかにきれいな三日月だった。 「きみも、月を見に来たの?」  そう訊かれて、わたしは首を横に振る。 「じゃあ、どうしてここに? 何かつらいことでもあったのかな」  その女の人は屈託のない笑みを見せた。学校の先生とは違う、さっぱりとしたその人の様子に、わたしはなぜか安心した。それで、ぜんぶ話すことにした。学校に行けないこと、家にいるのがつらいこと、正直なわたしの気持ちを。  わたしがつっかえつっかえ話すのを、女の人は一度もさえぎることなく聞いていてくれた。わたしが話し終わると、その人はこんな提案をしてきた。 「それじゃ、おねえさんと散歩に行こうか」  それは急なことだったので、わたしは少し戸惑った。そんなわたしの様子を察してか、女の人は苦笑しながら言う。 「大丈夫だって。ちょっとその辺をまわるだけ」  わたしは、知らない人についていっちゃだめ、というお母さんの言葉を思い出していた。でも、そのお母さんはわたしのせいで泣いてる。わたしはどこか遠くに行ってしまいたい気持ちだった。だからわたしはこくりとうなずき、差し出された手を取った。 「散歩は、こころに良いんだよ」  となりを歩くおねえさんがそうつぶやいた。  言われてみれば、たしかにそんな気もした。はちきれそうだった頭の中が、だんだんと静かになっていくのを感じていた。わたしの両足はしっかりと地面を踏んで、苦しかった気持ちが消えていくような気がした。  わたしとおねえさんはほとんど言葉を交わさず、手をつないだまま歩き続けた。  夜風が頬をなでていく。深夜の住宅街はしんとして、まるで海の底みたいだった。それがわたしを安心させてくれた。  おねえさんはわたしを家の前まで送ると、そっと一言言い残して去っていった。 「またこんどね」  わたしは夜道に消えていく後ろ姿を、じっと見送っていた。そして音をできるだけ立てないようにして、自分の部屋に戻った。  わたしはその後何度か、おねえさんと散歩をした。  後から思えば、おねえさんはわたしに必要なことをすべて分かった上で、あんな風に言い残したのだろう。子どものわたしが「またこんど」の言葉を真に受けて、あの人をもう一度訪ねに行って本当によかった。あの真夜中の散歩が無かったら、今のわたしも無かったかもしれない。  どうしても落ち着かない夜には、決まってあの公園を訪ねた。おねえさんはたいていブランコに腰かけて、夜空を見上げながらタバコをふかしている。わたしに気づくとすぐに火を消して、携帯灰皿をポケットにしまいながら、わたしに向かって微笑みかけてくれた。  ふたり一緒に歩きながら、ぽつぽつとお互いの生活の話もした。おねえさんはアパートでひとり暮らしをしていて、近所のコンビニで働いているらしかった。毎日たくさんの薬を飲んでいる、と聞いた時、わたしはおねえさんが重い病気なのではと思い、どきりとした。心配そうな顔を向けるわたしに、おねえさんはひらひらと手を振って、「大丈夫だよ。薬を飲んでればけっこうましになるんだ」と言った。  深夜の住宅街を、手をつないで歩く。おねえさんはいつも長袖の服を着ていて、その袖口からちらりと傷跡が見えることがあった。そのことの意味は、うすぼんやりではあるけれど感じていた。それでも子供のわたしにはどうすることもできなかったし、もしわたしに何かできたとしても、おねえさんはそれを望んでいないように思った。それほどにあの人は凪いだ眼をして、こちらを静かに見守るのだ。  ある晩、いつものコースを歩いていると、おねえさんは言った。 「きみ、なんか顔色良くなってきたんじゃない」  わたしは散歩のおかげもあってか、以前よりもよく眠れるようになっていた。  夜道の先に、わたしの家が見えてきた。もうすぐ散歩はおしまいだ。 「そろそろ、大丈夫そうだね」  おねえさんはそんな言葉をこぼした。その姿が月明かりに照らされて、わたしはおねえさんが遠くに行ってしまうような気がした。わたしはたまらず、つないだ手を強く握りしめた。おねえさんは優しく笑う。 「私はどこにもいかないよ」  そっと手を握り返されて、わたしは何も言えなくなった。 「それじゃ、また」  いつものようにそう言って、おねえさんは去っていった。わたしの右手にはまだぬくもりが残っていた。夜はただ静かだった。  次の日の朝、わたしは目を覚ました。  柔らかな日の光が窓から差し、小鳥の声が聞こえてくる。  わたしはベッドから身を起こした。眠い目をこすりながら、学校に行こう、そう思った。  なぜわたしがその日突然、大丈夫になってしまったのか、自分でもよくわからない。  家族も学校の先生も、急なことにとまどっていたようだけれど、わたしの回復を歓迎してくれていた。  ぎこちないながらも日々は過ぎ、いつしか以前と変わらない生活に戻った。  毎日学校に行っていると、夜には眠くなって寝てしまう。あの日以来、家の裏手の公園に行くことはなくなった。  あの真夜中の散歩道のことを、今でもときおり思い出す。  何年も前のことだから記憶はおぼろげで、すべて夢だったんじゃないかと思うこともある。  でもあの後一度だけ、おねえさんを見たことがあった。お友達の家に向かう途中、ふと通り沿いのアパートを見上げた。屋上の柵にもたれて、女の人がタバコをふかしている。わたしが小さく手を振ると、その人は片手を軽く挙げてそれに応えてくれた。遠くで友達が呼ぶ声がして、わたしはあわてて走っていった。  その出会いは一瞬だったけれど、あの日々が夢じゃなかったと実感させてくれた。  わたしは今日も家を出て、学校に向かう。両足でアスファルトを踏みしめて、しっかりとした足取りで進んでいく。空はよく晴れて、白い月がわたしを見守っていた。
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