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「す、すみませんでした……」
消え入りそうな声で謝罪をして、ふらりと踵を返す。
「あの、お客様、少しお待ちいただけますか」
やっぱり身分不相応なところに来るものじゃないな。そう思っていたくるみは、後ろからかかった声に足を止めた。
居た堪れなくて従業員の顔を見ることができず、出入り口を向いたまま固まっていると、しばらくしてから足音が近づいてきた。
「試作品でよろしければ、お持ちできるということですが」
すぐそばで聞こえた言葉に、くるみは勢いよく顔を上げる。すると少し高い目線で微笑む、綺麗な女性がいた。目を見つめながら、今し方の台詞を脳内で再生する。
――それって、ケーキを食べられるってこと?
「え、ほ……本当に、いいんですか?」
「味はお選びいただけませんが」
「全然かまいません! 好き嫌いとかまったくないので、なんでも大丈夫です!」
「かしこまりました、伝えてまいりますね」
くるみの鼻息が荒い返事を受け取ると、女性の従業員は一礼をして背中を向ける。そしてショーケースの奥にある、ガラス張りの厨房まで歩くと、中にいた長身の人物に声をかけた。
――きっと、あの人だ。
試作品を提供しようと言ってくれたであろう、心優しいパティシエ。距離があるので内容までは聞こえないし、後ろ姿で顔も見えないが、骨格からして男性だとわかる。
――後でちゃんとお礼言わなきゃ。
心で頷いたくるみは、視線を店内に戻すと、目についたテーブル席に移動する。無事にスウィーツにありつけると思うと、嬉しいやらホッとしたやらで、気が抜けて脱力するように椅子に腰を落とした。
そしてくるみがリュックを丸いテーブルに置いていると、焦ったように足音が近づいてくる。
「あ、あの、お客様、お持ち帰りでは……」
くるみが振り向いた場所には、先ほどとは違う女性店員が立っていた。
なんでそんなことを聞くのだろうと、くるみは不思議そうに目を瞬かせる。
「え? ここって、食べるとこじゃないんですか?」
「イートインは午後五時まででして……」
イートイン。そんな言葉を、聞いたことがあるようなないような。つまり店内で食べることができる時間は、とっくに過ぎている。そう理解した瞬間、くるみは顔から火が出そうになりながら起立した。
「ごごごごめんなさい! 私、なんにもわかってなくて!」
「かまいませんよ」
不意に訪れた、透明感のある甘い低音。くるみがゆっくりと視線をスライドさせると、女性店員の斜め後方に声の主を見つける。
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