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「キミもやりたいことないの?」
2人で戻ってきた彼女の狭い部屋。逃げるチャンスなんていくらでもあったのに、バカみたいに僕は誘拐犯の家に戻ってきた。明るい所で改めて見ると、彼女の膝には小さな擦り傷が出来ていた。
「あ、やっぱりエッチしとく?」
冗談ぽくそう言う彼女に向かって無言で目一杯首を横に振った。すると彼女は声を出して笑う。そして笑いながら窓際に腰をおろした。僕は彼女を睨みながら、出掛ける前と同じ位置に腰をおろす。
「じゃあさ、最後のお願い。」
そう言った彼女はその場に膝立ちになり、ゆっくり近付いて来る。目の前に膝立ちした彼女を見上げると、静かに目が合った。
「ちょっとさ、抱きしめさせて。」
何を言われたのか理解出来なくて、言葉が出なかった。返事をする前に、彼女は両手を伸ばして僕の頭を抱えるようにして包み込んだ。しっとりとした細い腕が頬に当たる。徐々に抱きしめる力が強くなっていく。じっとしているしかないのだけれど、どうしたら良いのか分からない。彼女の体温が、じんわりと僕に流れ込んでくるようだった。
「…あはは。あっつ。」
小さく、彼女が笑う。バカみたいに暑い中、よく知りもしない誘拐犯に抱きしめられている。ただそれだけなのに。
「暑いけどさ、」
どうしてだろう。
「温かいね。」
どうしてだろう。
「…そう、ですね。」
どうしてだろう。
「温かい。」
鼻の奥がツンと痛くて、目を強く閉じていないと何かが溢れてしまいそうだった。ずっと押さえ込んでいた感情が、湧き上がってくる。そして、その感情とともに思った。
やっぱり彼女だったんだ。
自信のなかった推察が確信に変わる。
彼女が来るのを、
僕はずっと待っていたんだ。
【一緒に死にませんか?】
8月に入ってすぐ。ふと目に入ったサイトに、僕は吸い込まれるように書き込みをした。一緒に死のう。見ず知らずの誰かとそんな約束を交わした。約束した日時に駅前のあの場所に行ったけれど、相手は来なかった。なのにメッセージだけが送られてきた。
【ごめんなさい。今日は、死ぬのが怖い。】
死にたかった。死ねなかった。でも、逃げ出そうと思った世界にはもう戻りたくなかった。
【死にたくなったら行きます。だから、】
苦しかった。
【キミもまた死にたい時に来て】
僕なんかいなくなった方が良い。
【もし同じ時に死にたいと思えたら】
誰か、一緒に死んで。
【その時一緒に死にませんか。】
その言葉を信じて、僕は毎日約束の場所に立ち続けた。死にたくない日なんてなかった。でも1人で死ぬ勇気はなくて、名前も顔も知らない誰かに縋りつくように毎日駅前のあの場所に行った。
「…死にたくなったから、会いに来たの?」
そう尋ねると、彼女の腕にほんの少し力が入った。
「…キミは、毎日来てたね。」
小さく、頷いた。
「あの書き込み、嘘だったの?」
彼女が首を横に振った気がした。
「…なんでなのかなぁ。」
彼女の腕がほんの少し、震える。
「初めてキミを見た時思ったんだ。あの子はまだ、死んだらダメだって。」
なんて勝手な理由。
僕は死にたかったのに。
僕は何も出来なくて、
生きてる意味が分からなくて、
何の価値もない。
心配されることも大事にされることも苦しかった。
ゴミみたいに扱われる僕を、知られるのが堪らなく怖かった。
大事に育てた子どもが、本当はゴミ屑なんだと知ったらどれだけ傷付けてしまうだろう。
痛くて、苦しくて、息が出来ない世界。
逃げ出してしまえれば楽になる。
分かっているのに出来なかった。
1人では、何も出来なかった。
弱くて惨めで、
そんな自分が大嫌いだった。
だから誰かに縋った。
一緒に死んでくれる誰かに。
早く
早く
早く
早くしないと、
夏休みが終わってしまう。
また、地獄が始まる。
だから僕は、ずっと待っていたのに。
「…っ、僕は、死にたかったんだ。」
彼女が頷く。
「うん、ごめん。約束破って。」
声が、震えていた。
「ほんと、しんどいよね。」
彼女がどんな世界を生きているのか僕は知らない。
「でも今日、久しぶりにちょっと楽しかった。キミのおかげで。」
知らないけれど、死にたいと思ってしまうような世界にいたんだと思う。きっとそれは嘘じゃない。
「…もうすぐ、‘今日’が終わるね。」
僕は小さく頷く。
「今から一緒に死のうと思えば死ねるけどさ。こんな時間だし、とりあえず、明日まで待ってみない?」
抱きしめる腕に力が入っていた。
「そんで、明日もなんとか生きられたら」
その先の言葉はきっと、僕が欲しい言葉じゃない。
「もうちょっとだけ、先延ばしにしてみない?」
欲しい言葉なんかじゃない。
「なんかもう疲れちゃったしさ。今決めんの、しんどいじゃん。」
なのに、僕は頷く。明日からの世界を想像すると絶望する。それでも僕は、彼女の言葉に頷いていた。
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