柔らかな誘拐

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 彼女を見かけたことは何度かあった。Tシャツにショートパンツ、手ぶらでこの辺りを時々歩いている、恐らく20歳前後の女性。身体の線も、靡く髪も、頼りないほど細い。でも決してみすぼらしい感じではない。いつも同じ格好をしている彼女が裕福でないことは簡単に想像出来たけれど、歩き方も姿勢も横顔も、どこか凛として見えた。何より、彼女は綺麗だった。僕はそんな彼女を時々横目に眺めながら薄暗い夕方の駅前にいた。誰にも見つかることのない騒がしい場所で、僕はずっと人を待っていた。 ―――黙って、言うこと聞いて。  夏休み。薄暗くなってきた夕方の街。聞いたことのない声とともに背中に当たる硬い感触。いつの間にか僕のすぐ後ろに立っていた彼女に気づいた時、背中に冷や汗が流れた。 ―――騒いだら刺しちゃうかも。 背中に当たっているのは果物ナイフのような小さな刃物。僕は彼女の言う通りに街を歩き、街灯の少ない細い路地に入った。           ***  物はあるのに空っぽ。名前も知らない彼女に通されたのは、そんな部屋だった。 「掃除とかしたことないから汚いかも。」 敷きっぱなしの薄い布団を、足で部屋の隅に寄せる。現れたのは周りより少し色の濃い畳。その布団も干されたことなんてきっとないのだろう。 「適当に座って。」 彼女はそう言って先に座る。ギシッと床が鳴る。僕は部屋の入り口に立ったまま動けずにいた。 「どうして」 口だけがようやく動く。 「どうして、こんなこと」 でも言葉はうまく出て来ない。 「怖い?」 彼女は僕を真っ直ぐ見上げる。 「帰りたかったらいつでも帰って良いよ。私はただキミが、」 そう言って彼女は言葉を選ぶように一瞬視線を泳がせる。 「消えちゃいそう、って思っただけ。」 消えちゃいそう。 その言葉が痛みを伴って僕の心に入ってくる。  僕は彼女に誘拐されたらしい。誘拐と言っても、僕は何も制限されない。僕を脅した小さなナイフはおもちゃなのだと早々にネタバラシをした彼女は、蒸し暑い部屋に唯一ある窓を開けて、ぼんやりと外を眺めていた。 「あの、」 「なに?」 彼女はこっちを見ることなく返事をする。 「なんで僕なんですか?」 たくさんの人が行き交う駅前。僕は彼女より年下だろうけれど、身長は大して変わらない。細い彼女になら、僕の力でも勝てそうだ。僕より小さな人も、弱そうな女性や高齢者もたくさんいた。なのに彼女が誘拐するのに選んだのは僕だった。 「じゃあなんでキミは、毎日あそこにいたの?」 別に誘拐される目的であんなところにいたわけじゃない。だいたい中学生にもなって誘拐されるだなんて思ってもみなかった。それに毎日彼女を見かけたわけじゃないはずなのに、彼女は僕が毎日いることを知っていた。いろいろな言葉が浮かんだはずなのに、僕の口からはその1つさえも上手に出てこない。 「帰りたくなったら帰って良いし、ここにいても良いよ。」 何も言わない僕に、彼女は言葉を続ける。 「私お金ないから、あんまりご飯食べさせてあげれないけど。あとこの部屋エアコンないから暑い。」 彼女は小さく欠伸をする。 「…これって、‘誘拐’なんですよね?」 そう言うと彼女は首を傾げる。 「誘拐でも、誘拐じゃなくても良いよ。」 彼女はフッと笑う。掴みどころのない雰囲気。僕はどうすれば良いのか分からなかった。         ***  この部屋の壁に時計はない。よくよく探してみると、彼女が足で壁際に寄せた布団の影に小さな黒い目覚まし時計が置いてあった。時刻は6時45分。外は薄暗い。時計の指す時刻が合っているのか確かめるためにポケットからスマホを取り出す。点けた液晶には6時46分と表示されていた。それからメッセージの通知が1件。送り主の名前を見たまま、中身を開くことなくスマホの液晶を真っ黒にした。  ガチャっと玄関の扉が開く音がした。振り返ると、彼女が手に5本入りのスティックパンを持って入って来た。 「…あっつ」 座っている僕の足の上にスティックパンの袋をそっと置いた彼女は、窓際まで行くと座ってTシャツを脱ぎだした。 「ちょ、ちょっと」 慌てて声を出すと、お腹と下着の下の方が見えたままの状態で彼女が動きを止める。無言で僕を見る彼女。僕は直視出来ずに視線を逸らした。 「…ムラムラしちゃった?」 平然と彼女は言う。 「触る?」 「な、はぁ?!」 Tシャツを捲り上げたまま彼女が四つん這いで僕に一歩近づいてくる。僕は慌てて後ずさりする。 「逃げなくて良いのに。」 動きを止めた彼女がフッと笑う。 「したかったらしても良いよ。あぁ、でもゴムないから病気とか心配なら止めた方が良いかも。」 脱ぎかけていたTシャツを再び着直した彼女は窓際に戻る。 「…病気って、」 「私、フーゾクで働いてんの。」 フーゾク…風俗。その言葉が頭の中で漢字変換されるまで少し時間が掛かった。 「…え、風俗って」 「お客さんとエッチなことしてお金貰う仕事。」 なんて答えたら良いか分からず、僕は彼女から目を逸らして黙り込む。 「今日はサボっちゃった。‘誘拐中’だもんね。」 そう言って彼女は笑う。真っすぐ見ることは出来なかったけれど、笑った彼女は駅前で見ていた時より幼く見えた。  彼女が買ってきたスティックパンを食べていると、ポケットの中でスマホが振動した。すぐには消えない。メッセージじゃなくて電話だった。 「鳴ってるよ。」 窓際から動こうとしない彼女が言う。 「…別に良い。」 振動が少しでも小さくなるように、僕はポケットの上からスマホを抑えつけた。持っていたパンからこぼれたパン屑が黒いズボンにかかる。 「ふぅん。」 大して興味無さそうにそう言って、彼女は窓の外へ視線を向ける。外はとても暑いはずなのに、不思議と1つしかない窓から入ってくる風は不快ではなかった。 「キミには、心配してくれる人がいるんだね。」 ポケットの中の振動が止まった時、彼女はポツリとそう言った。 「…そんなんじゃない。」 ‘心配’って言葉はズルいと思う。 「綺麗な服。」 彼女はまたポツリと言う。 「大事に育てられてます、って感じの見た目だけどね。」 その言葉に僕の体温は一瞬にして上がった。 「金目的ならそう言えば良いだろ?!」 大きな声を出した。でも彼女は驚く様子もなく平然としていた。そんな彼女に向かって僕はポケットの中からスマホを取り出して放り投げた。 「大事にされてるわけじゃないけど、金を要求したら払ってくれるんじゃない?」 彼女の前にぽとりと落ちたスマホ。でも彼女はチラッと見ただけで手を出そうともしない。 「お金は別に良いかな。」 彼女が何を考えているのかさっぱり分からない。でも僕は今目の前にいる不思議な誘拐犯にとても苛立っていた。 「風俗で働いてるくせに?」 わざと嫌な言い方をしたのに、あはは、と彼女は笑う。 「儲からないんだよねぇ。」 「え?」 「お金貰う度に思うの。‘私の価値ってこれくらいなんだな’って。」 笑っているのに冷めたような声。 「それにさ、」 彼女は言う。 「私、もうすぐ死ぬつもりだから。」 「…え?」 彼女は笑う。 「‘かわいそう’って思った?」 その笑顔は何を考えているのか分からない。 「‘かわいそう’ってちょっとでも思ったならさ、」 開け放たれた窓から入ってきた生温い風が、彼女の髪をさらう。 「私のやりたいこと、ちょっと付き合ってくれない?」 彼女は僕のスマホを拾い上げて、電源を切った。画面が真っ暗になったスマホを差し出され、僕は黙ってそれを受け取る。スマホの電源を切ったことなんて、今までなかった気がする。目が合った彼女は小さく笑う。何を考えているのか分からない。でも、彼女は綺麗だった。    
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