12人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
女が街を走っていた。
もう夏も終わりを迎えたニューデリーの街内を、日本人の女が必死で駆けている。
彼女の後ろからは、タンクトップ姿に短パンを穿いた男たちが追いかけていた。
男たちはヒンディー語で声を掛け合い、なんとか女を捕まえようとしている。
この蒸した夜をリクルートスーツで走っているのもあって、女は汗をびっしょりと掻いていた。
息切れも酷く、心臓は破裂寸前だ。
だが、それでも女は足を止められない。
捕まれば確実に殺される。
そう考えると、苦しいなどと言ってられない。
早く、早く逃げなければと、悲鳴をあげている身体に鞭を打ってひた走る。
それから女は、中心街からバックパッカーが訪れる安宿の多い場所へと追い込まれた。
すでに閉まっている出店や、道にあった干し草を食む牛を横目に、より細い道へと入る。
入った路地裏には、サイケデリックな模様の看板がそこら中にあり、周辺には聞いていた通りの安宿が密集していた。
幸いなことに、ここには夜でも人が多く、彼女は人混みに紛れて男たちの追跡を振り切ることに成功。
その後、どこか安全な場所を探すため、より街から離れたところへと移動ことにする。
周囲を警戒しながら安宿街を出て、ヤムナー川沿いを当てもなく歩く。
「……あ、お金ないんだった」
ジャケットを脱いで手に持ち、今さら所持金を置いてきてしまったことに気が付く。
無事に男たちを振り切ったのはよかったが。
こんな見知らぬ外国で頼れる人間もいないうえに、金もないというのは絶望的だ。
唯一この状況をなんとかできそうなのは、彼女が英語を話せるということくらい。
しかし、街に戻れば男たちが彼女を捜し回っているだろう。
うかつに街へは戻れない。
トボトボと肩を落として歩いていると、女の目の前に半壊した建物が見えてきた。
元々は研究施設だったのだろうか。
半壊した建物を近づいてみると、何かを測定するような機器類が朽ち果ててまま横たわっている。
女は考える。
もう体力も限界だ。
今日はここで眠ろう。
彼女は道端で眠るよりはいくらかマシだと判断し、屋根も崩れているような建物へと歩を踏み入れる。
もしかしたらホームレスなどの先約がいるとも考えたが、やはりこんなところに人などいなかった。
「うん? なんだこれ?」
女は不自然に蓋がしてある床に手をやると、そこにはこの建物の地下へと出入り口があった。
半壊したところよりは地下のほうが寝るのに安全だと思った女は、スマートフォンのライトを頼りに階段を下りていく。
階段を下りると、よくは見えないが、研究用の機械などがある。
それらは新品とはいわないが、一階にあったものと比べると、どれもまだ使えそうなものばかりに見えた。
埃っぽいところではあるが、野ざらしにされた上より清潔で、女はここで眠ることを決める。
「そうだ。これだけ状態がいいんだったら……」
女は地下の状態がよかったことから、もしかしたら電源が生きているかもしれないと考えた。
これだけ大きな建物だ。
停電対策で予備用のバッテリーがある可能性がある。
女はそう思うと、部屋中をスマートフォンの灯りを照らして回る。
地下の部屋には、大型の液晶画面やコンソール、よく用途がわからない人が一人入れるようなガラスばりの箱がいくつかあり、さらには大小のケーブルなどが無造作に転がっていた。
「あった! たぶんこれ!」
隈なく探していると、壁に付いた大きなブレーカーを発見。
まるでまな板ようなブレーカーを両手で持って上げると、突然部屋中の照明がついた。
やはりこれだったと、女がホッと胸を撫で下ろしていると、ボイスチェンジャーを使用したような女の声が聞こえてくる。
《ありがとう。アナタが起こしてくれたのね》
女はどこから声が聞こえてくるのかと、周囲を見回すが人の姿はどこにもない。
ただ部屋の天井にあったスピーカーから、女の声が聞こえてくるだけだ。
「あなた……誰なの……?」
恐る恐る訊ねると、ボイスチェンジャーを使用したような女の声が返事をする。
《ワタシはクロエ。今アナタの目の前にあるコンピューターの中で生きている者よ》
「者って……まるで自分が人間みたいな言い方してるけど、ようはAIとか人工知能とかってやつなの?」
《あなたがそう思って安心できるならそれでいいわ。とりあえず、ワタシも名乗ったんだから、あなたの名前を聞かせて》
女は大型の液晶画面に映る人の顔を見て、両目を見開いていた。
一体何が起こったんだと身を震わせながらも、訊ねられたことに答える。
「わたしは緩爪……緩爪·ルイ……」
最初のコメントを投稿しよう!