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「ん〜っ、んぅ!」
妙な声を最初に捉えたのは、図書室に足を踏み入れてわりとすぐのことだった。
うちの高校は人気が多い方なだけあって、偏差値もそこそこの進学校。
だからと言うわけではないだろうが、図書室の充実度は県内随一と謳われている、らしい。
らしい、と不確定なのは、俺自身がこの一年、一度たりともこの場所を利用したことがないからだ。
それもこれも、まあ、思っていた以上に成績が悪化しているいうことについに気づいてしまったからというわけであって。
「『やさしい物理の基本』……ああ、あった」
目当ての本を見つけ、抜き出してぱらぱらとページを繰ってみる。
うん、良さそうだ。これで俺の成績が回復するかどうかは別として。
どうやら、うちの高校の図書室は本当に充実しているらしい。
改めて自分の周囲を見回してみる。
初めて足を運んで生で見たが、何列にも及ぶ棚にぎっしりと隙間なく並ぶ本たちの眺めは、まさに圧巻だ。
とはいえ俺以外に人気はなく、もったいないな、という言葉がぽつりと頭に浮かんだ。
そんな今まで知らなかった光景を知り、静かに感傷に浸っていたその時だ。
「あっ、と、ちょっと……!ん、ん〜っ」
どこからか、向こうの窓から入り込んできた風に乗って声が聴こえた。
思わず肩を強張らせて息を殺すが、それ以上は何も耳に入ってこない。
……誰か、ここにいるのか?
今の声は恐らく、女子のものだっただろうか。
てっきり今日利用しているのは俺一人だと思っていたが、よく考えてみればそんなわけないだろう。
今までだって毎日ここは開いていたのだから、俺以外に利用していた人がいるのは当然だ。
誰も使わない図書室を開けておく必要はないのだから。
それらしい結論が出て、同時に、ついさっきの声は頭の片隅に追いやられる。
しかし、だ。
「んんっ!……あ、んん〜 ! ! 」
再び、力むような声が耳に届き、俺は本を借りに行こうとしていた足をぴたりと止める。
今回は間違いない。声質からして、明らかに女子のものだ。
そして確信を得るとともに、ある違和感に気づく。
さっきの声といい今の声といい、何だか様子がおかしくないか?
何と言うべきか。……その、色っぽいのだ。声色が。
「いや、そんなわけないよな」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、ついでに浮かんでしまった煩悩を消し去るべく頭を強く振る。
馬鹿なこと考えるんじゃねぇ。ったく。
第一、図書室であんな艶めかしい声を出す奴がいるかって話だ。
いや出している人には申し訳ないが、だがしかし、ここはいくらなんでも。さすがに場所が場所だろ。
いらぬ想像を頭の中から無理矢理追い出す。
よし、さっさとこの本借りて家で勉強するか。普段しないけど。
そうしてないと、何か忘れられそうにねぇもんな、あの声。
透き通るような、儚いような。
それでいて、花のように可憐で、なぜか無性に守りたくなるような。
今までにないくらい、心臓が速く動いているのがわかる。
……少しだけ、覗いてみようか。
魔が差したとでも言うべきか、俺は数分前の決意を綺麗さっぱり忘れて、あろうことか声の居所に意識を集中させ始めた。
「……う、ん〜!もっ、ちょ……あ!」
聴こえた!
再び俺の耳があの声をキャッチして、瞬間、振り返る。
後ろだ。二列後ろの棚の方だ。
気配を極限まで消し、一歩一歩慎重に距離を縮めていく。
一歩。二歩、三歩。
あくまで自然な感じを装いつつ、問題の棚の列にさりげなく足を踏み入れ――、
「あ!あとちょっとだったのに……」
「え」
「え?」
かなり棚の上の方の段に手を伸ばす女子の後ろ姿が見え、俺はつい声を漏らしてしまった。
しまった、と思ったが時すでに遅し。
振り向きざまに俺の姿を見とめた彼女は、「きゃあ!」とバランスを崩し、体を傾かせる。
その様子は、まるでコマ送りのようで。
風を受けて胸元で揺れる、制服のリボンが妙に美しくきらめいて見えた。
しかし実際はいつまでも見惚れているわけにもいかず、俺は咄嗟に残りの距離を一気に詰める。
恐る恐る片目を開ければ、ぎりぎりのところで滑り込んだ俺の手は、何とか彼女の背中を支えることができていた。
次いで、俺の視界に超至近距離で入り込んできたのは、ふんわりと柔らかな印象の、声の通り可憐で小柄な女子の姿。
その視線は、今もちらちらと棚の上の段に向いている。
さっき手を伸ばしていた、あの緑色の分厚い本だろうか。
見た感じ、彼女の背丈では一番上の段にはなかなか手が届かないように映る。
だからさっきからあんな悩ましげな声を出していたのだろう。
貸し出しカウンター付近に脚立があったことを思い出したが、口には出さないまま。
代わりに、もう一度あの声が聴きたいという悪魔の囁きを振り切って、俺は棚に手を伸ばした。
「取りたいの、これで合ってる?」
「……はっ、はい!それですっ」
俺の意図を悟って、彼女は首をぶんぶんと縦に振る。
取ろうとしていて手が届かなかったことを恥ずかしく思っているのか、頬が熟れた苺みたいな色に染まっている。
本を抜き取って渡してあげると、大事そうにそれを受け取った彼女はとても幸せそうな表情をしていた。
この子、本当に本が好きな子なんだな。
全身からそんな雰囲気が伝わってきて、俺までなんだか頬が緩んでくる。
「さっきは大丈夫だった?」
「はいっ。重ね重ね、すみませんっ」
私しかいないと思っていたので、驚いちゃいました。
我に返ったようにあわててぺこぺこ頭を下げながら浮かべる、恥じらいの混じったその笑みに、俺の目が恐ろしいほど自然に吸い寄せられて。
――あ。これやばいやつだ。引き返せないやつだ。
抱いていたものが片道切符であったことに今さら気づき、……でもまあ、これはこれでいいかと、一人頷いた。
「あのさ。君の、名前は?」
気づけばそう口にしていて、俺の中に芽生えていたものの存在をようやく確信する。
俺はどうやら、とっくに彼女に落ちていたらしい。
「俺、二年の冬弥」
「わ、私も同じくっ。二年の、東風 小春です」
同級生だったのか。ぜひとも、もっと早くに出逢いたかった。
小春。小さな春。
彼女のあたたかい陽だまりのような雰囲気にとても合っていると、心の中で納得する。
そして、続けて俺に向けられた控えめのほほえみに、再び目を奪われるのだった。
変な場面を想像をしていた自分を思わずぼっこぼこに殴りたくなるくらいには、その笑顔の破壊力は抜群で。
一秒でも見逃すものかと穴が空くほど見つめていたら、視線に耐えかねたのか彼女が困ったように頬を赤く染め直した。
「ええと……」
「覚悟、しといて」
えっ、と水晶のようなその瞳を大きく見開く彼女に、この日俺は誓う。
いつの日か、あの可愛らしい声で俺の名前を呼ばせてみせる、と。
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