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1.記憶の棘
◇
『明日が来れば何か変わるかもしれない』と夢を持って生きていた頃は過ぎた。今の自分はただただ生きているだけだ。
「配達です」
涼しい
自転車から降り、汗だくの体をオフィスビルに進ませる。万が一知り合いがいても困るだけなので、ヘルメットは外さず、黒いマスクもしたままだ。抑制剤を飲んでいたとしても、マスクが無い状態でα《アルファ》と会う事は避けたいので、滅多にマスクは外では外さない。Ω《オメガ》と判明してから自分の生活も180度変わった。
「ご苦労様です」
この受付の女性はβ《ベータ》なのだろうか。一瞬少しだけ見えてしまったこちらの首輪を興味深そうに見つめていた。
「ありがとうございました」
軽く会釈し、暑い陽射しの照り付ける外に出た。Ωの中では首輪すら隠す者もいるし、自分もそうしている。それではΩを忌み嫌って離れに閉じ込めようとした実家と同じだが、世界への恐怖心を和らげるためには仕方ない。
もうひと頑張りか
Ωといえば風俗で働けば楽に稼げるそうだが、恐ろしさがあり、精神的にも無理だと選択肢から除外した。かといってΩは長時間の拘束には耐えられない場合もあるため、会社員では採用されない。そのため、陸上選手として培った体力を活かせる配達員の仕事をしている。元々頭のレベルは中の中なので、丁度良いのかもしれないが。木陰でマスクを外し、自転車のドリンクホルダーから冷水ボトルを取り、喉を潤していると、ランチを終えたと思われる会社員が数名通りかかった。
昼時だったか
マスクを着けようとしていると、向こうから歩いてきたすらりとした長身の男と目が合った。茶髪ではあるが上品な色味だ。垂れ目の優しげな甘さのある顔立ちに見覚えがあった。
もしかして
「あれ・・・黒木先輩?先輩じゃないですか!すごい、何年ぶりだろう。五年振りかな?」
「え、いや、人違いです」
葉山だ
高校の陸上部で一年だけ後輩だった相手だった。人懐っこい笑顔は懐かしかったが、彼を見ると胸の奥底で古傷が疼く感覚があった。
『まさか黒木がΩとか…いい匂いすぎなんですけど』
『ありかも、ヤらせて~』
『家族になろ?』
『や、止めろ一一ハァ…ハァッ』
『いいじゃん。ここってどうなってる訳?』
『鬼畜過ぎ~あはは』
『ヒィッ一一やだって!』
部活の最中にヒート《発情期》になったのだった。多勢に囲まれてシャツをまくられる。パニックに陥っていたのに、体は物欲しそうに熱く動けずにいた。
『先輩に何するつもりですか!』
葉山の怒声が響いた。
『邪魔すんな』
『葉山・・俺』
『逃げましょう』
β《ベータ》の彼だから出来た事だったが、その時の彼はいつもの穏やかな彼とは真逆で、まるで救世主の様だった。その時は、不覚にも後輩をかっこいいと思ってしまった。
「嘘だぁ。だって同じ顔ですもん」
「お前、止めろって。あ、、」
乗せられた
でも、気まずい
マスクを下げようとするので叱ると、悪びれずに微笑んだ。
「葉山」
「あ、先に行ってて」
チラリと彼の同僚がこちらを見る好奇の目に、居心地が悪くなる。人の、特に同性の視線が怖いと思うのは過去の経験からだろう。
「とにかく、仕事中なんだろ?俺もそうだから、じゃっ」
「あ、待って下さい」
「痛って、何だよ」
「あ、ごめんなさい。これ、俺の名刺渡しておきますから。先輩の名刺は?」
「サポートセンターのしか無い。ほら」
「これだと先輩が来るかわからないし。そうだ、ここに連絡先書いて下さい。えっと、これでお願いします」
青いボールペンを渡されて逡巡した後、殴り書きした。
連絡してくる事も無いだろうけど
「はい、書いた」
Ωとβであっても住む世界は違う。だが社交辞令に応じるのも大人だからだ。
「ありがとうございます。連絡しますね」
「ん」
手を軽く振り去っていく後ろ姿を見送る。
もし万が一連絡してきたら一回会う位はいいか
βなら大丈夫だろうし
そう頭の中で言い訳する。懐かしさから、少しだけ連絡が来ることに期待してしまう。
俺も嫌いじゃなかったからなぁ
ぶっきらぼうに接してしまうせいで、後輩から好かれていたとは言えなかった。が、唯一懐いていたのが彼だった。スーツ姿でオフィスビルに入っていく彼は、会社にも馴染んでいる事だろう。同じ会社で働けたなら楽しかっただろうな、と想像を巡らせそうになる頭を振る。
「次は」
スマホを出して仕事モードに切り替えた。
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