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「あれ? 鞄……?」
返事に困り、手にしていたものを強く握り締めた詠月に、陽太が目を丸くする。どうやら鞄の紐部分を握りこんだようで、それが彼の目に止まったらしい。
「詠月、外に出る気になったのか!?」
眩いばかりの笑顔を浮かべた陽太が、嬉しそうに肩を掴んでくる。
「良かった! ほんと良かった……! 俺、お前が外に出られるようになったら一緒に行きたいって思ってたとこ、いっぱいあるんだ。ゆっくりでいいから少しずつ慣れて行こうな!」
「っ、ちが、う、俺、お前とは、行かないっ」
「えっ、なんで?」
「陽太は、誰とでも行ける、だろ。だから、俺のことはもう、放っておいてくれていい、から」
ようやく、詠月の様子がおかしいことに陽太も気づいたのだろう。怪訝な顔でこちらを覗き込んできた。
「他の誰かじゃ意味ないよ。俺は、お前と行きたいんだ」
「なんで……」
「なんで? そんなの、詠月のことが好きだからに決まってんだろ」
当たり前だろ、とばかりに陽太が首を傾げる。詠月は手にしていた鞄を床に落とした。
「し、しらない、そんなの聞いてない」
「はぁ!? 昨日、散々言ったろ!」
確かに、睦言の中にはそれらしき言葉もあった。可愛い、好きだ、もっと欲しい。けれど、どれもこれも行為を盛り上げるための常套句だろう。
「あんなの、そ、その場の勢いで出た言葉だろ? だから、お前の本心じゃないって、思って……」
「……なんで、そう思っちゃうかなぁ」
自己肯定感が低すぎるのか俺の信用が足りないのか、と口を尖らせながら陽太が呟く。
「なぁ、じゃあ詠月もそうなのか? 流されて口にしただけ? ……俺のこと、好きって言ってくれただろ」
俺は違う。そう返そうとして、言葉が喉に貼りついた。疑われたことへの悲しさはある。けれど、このまま肯定して誤魔化してしまったほうが友人を失わずに済むのではないかという葛藤が胸に渦巻く。
正解がわからない。間違えてはいけない。波風を立てないようにしないと、蔑みと怒りの視線を向けられてしまう。息をすることすら緊張していた会社での日々を思い出し、開いたまま動きを止めた唇がぶるぶると震えた。
(陽太は、違うのに)
人が怖くなって、うまく喋れなくなって、最終的に家から出られなくなった詠月を見捨てず、根気強く付き合いを続けてくれた他人は陽太だけだ。お陰で、彼を相手にしたときだけは、昔のように会話を交わすことができるようになっていた。
本当にありがたくて、かけがえのない存在。
抱いてしまった淡い恋心さえ隠しておけば、これからもずっと、ちゃんと友達でいられると思っていたのに。
酔ってふわふわとした頭が、想いを吐き出すことを許してしまった。それが正しいのか間違いなのかもわからぬまま、触れ合うぬくもりに浮かれて声に出してしまった。
(どうしよう、どうしたらいいんだろう。今更ここで否定しても誤魔化せない? それならはっきり好きだって告げたほうがマシ? 陽太がほんとに、ほんとに俺のこと好きだったなら両思いだけど、そんなことある? 今はまだ昨日の熱が残ってるだけで冷静になったらやっぱり勘違いだったって言われるかもしれない、それなら一回の過ちにしといたほうがいいよね、でも冗談だって言ったら笑ってくれるのか怒られるのかそれすらわからない、どう返すのが正しいのかわからない、どうしようどうしようどうしよう)
ぐるぐると答えのない思考だけが頭を巡り、視界がぼんやりと暗くなってくる。息苦しさを感じて思わず呼吸を意識すれば、心臓がばくばくと嫌な音を立てていた。
怖い。逃げたい。この場から消えてしまいたい。
そうだ。背後の窓から飛び出せば、少なくとも陽太の前からは姿を消すことができるのではないだろうか。
まるで天啓が下りてきたかのような気づきに従い、詠月は慌てて後ろを振り返ろうとした。
そう、差し込んでいる光に向かって、このまま外に行けば。
「詠月」
不意に、陽太が勢いよく詠月の体を引き寄せた。窓のほうを向くことすらできなかった詠月は、急なことにぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
背中に回された腕の感触に、違う意味で心臓が大きく跳ねた。
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