君と踏み出す

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君と踏み出す

 そうだ、外出しよう。  窓の外を眺めながら、詠月(よつき)は急にそう思い立った。  部屋に引き籠もり始めて、一年弱。買い物は食材も含め全てネット通販、本当に必要な用事──ゴミ出し以外は外に出ず、それすらも嫌々こなしていた自分の突然の心境変化だった。  窓からは燦々と降り注ぐ太陽の光。これまでの詠月なら、日に焼かれて死んでしまう、くらいは思っていたはずなのに、今朝はとても心地よく感じている。ガラス戸を開けて深呼吸すれば、気持ちの良い風が頬を撫でていった。  夜が明けた後の、朝の爽やかな空気。 「外……いいかも……」  呟いた自分の声が、ひどく掠れている。その事実を無視して、詠月はくるり、と身を翻した。  外に出るなら、着替えなくてはいけない。外出用の服を引っ張り出してくるのはいつ以来だろうか。あとは財布とスマホと家の鍵を放り込む鞄と、ゴミ出しに出る時のようなスリッパではなくちゃんと歩ける靴を用意して── 「よつき……?」  不意に耳に届いたのは、寝惚けてふわふわとした友人の声だった。嘘だろ、と詠月は驚きに目を瞠る。  起こさないよう、そっと用意をしていたのに。普段は声をかけてもなかなか目を覚まさないタイプのくせに、どうして今日に限って起きてしまったのか。  声に導かれるよう無意識に視線を動かせば、ベッドの上で友人の陽太(ようた)が目を擦りながら起き上がろうとしていた。乱れた布団とシーツが、詠月の目に入ってくる。  途端、忘れようとしていた昨夜の生々しい記憶が蘇ってきた。  陽太は、高校時代からの友達だ。  大学卒業後、ブラック企業で心身をすり減らして外に出られなくなった自分を気遣い、彼はちょくちょく部屋に遊びにきてくれていた。  昨夜も、部屋に押しかけてきた陽太と酒を飲んでいたのだ。いつものように他愛ない話で盛り上がっていたはずなのに、気づいた時にはベッドに押し倒されていた。二人ともかなり酔っていたし、前後があやふやでどうしてそうなったのかは覚えていない。どんな会話があった上でそんな色っぽい空気になったのか、教えてほしいくらいだ。  好奇心からなのか、ただの勢いなのか。理由はわからないまま、詠月は陽太に抱かれた。行為を盛り上げるためか、最中に甘い言葉を囁かれたことは覚えている。その場限りの睦言だけしっかりと耳に残っているのが、いっそ惨めだった。 「あっ、詠月、体は大丈夫か? 俺、全然我慢利かなくて……、無理させてごめん!」  次の行動に移れず固まっていた詠月を見て、それまで寝ぼけまなこだった陽太が勢いよくベッドから降りてくる。いっそ忘れていてくれていればよかったのに、どうやらはっきりと覚えているようだった。  そういえば、酒に酔っても記憶は飛ばしたことがない、と前に口にしていた気がする。ならば、詠月が声に出した何もかもを彼は忘れていないのだろう。 (早く、外に行きたい)  近づいてきた陽太から逃げるように一歩後ずさる。マンションの四階から飛び降りるのは、さすがに現実的ではない。わかっていても、窓を開けてベランダから外に踏み出したい気持ちでいっぱいだった。  喘いだせいで声が枯れているし、普段しないような体勢を取らされたからか足も腰もガタガタだ。腹も痛いし下半身には未だに違和感が残っている。正直、今すぐベッドに戻って寝直したいくらい疲れていた。  けれど、そんな疲労を無視してでも、詠月はこの部屋から出て行きたかった。部屋にいないためには、外に出るしかない。  逃げだ。逃避だ。わかっている。前向きな感情で外に踏み出そうとしたわけではない。わかっている。  けれど、あれだけ拒否感を募らせていた部屋の外に行きたいと願うくらい、今の自分はこの場にいたくないのだ。  だって、ここにいたら、脳が勝手に再生してしまう。  密かに想っていた彼への気持ちをうっかり吐露してしまったこと。相手からもたらされる快楽にみっともなく溺れたこと。恥じらいもなく欲しがってしまったこと。  全部、思い出すまでもなく、脳裏に刻まれてしまっている。  相手にとっては酔いのせいで犯した間違いかもしれないのに、詠月だけが行為に意味を見出してしまうから。せめて、夢のような時間だったと思えるくらいに落ち着くまで、世界で一番怖い場所になってしまった自室から出ていきたかった。
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