夏と蝉の声と彼と。

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「あっちぃ……」  薄汚れた木製の玄関ドアの前、ガサッと手にしたビニール袋を揺らし、俺は空いてる方の手でズボンのポケットを探る。  その間も額から汗が流れ、顎の先からぽたっと滴った。  お盆前って何でこうも暑いのだろう。地球温暖化だかフェーン現象だか知らないが、毎年暑さが増していってる気がする。  そんな事を思いながらポケットから取り出したのは鍵。使い古され輝きを無くしたそれには、所々色がはげた一昔前のゆるキャラの根付けが付いている。  鍵穴に差し込む前に、それを握った手――その甲で、ぐいっと汗を拭う。付いた汗が、強い日光を浴びてきらりと光った。  差し込み、回す。開錠の手応え。鍵を抜きドアノブを握る。だけどすぐ回す事はせず、ぎゅっと強く握った。そうして目を閉じ、軽く深呼吸すると一息に回し引き開けた。  途端、ひんやりとした風が頬を撫でてくる。それに誘われるようにゆっくり目を開ければ、半袖Tシャツにハーフパンツとラフな格好の男が立ってた。俺に笑顔を向けて。 「帰ってきてたんだ?」  緩みそうになる口元を気合で引き締め、彼から目を逸らしぶっきらぼうに口を開く。 「ちょっと前に。なあ、んな事よりいつもの」  彼は両手を広げると、にっ、と白い歯を見せてきた。対して俺は眉を顰め口を歪める。しかし頬は赤く染まって。  行儀悪いけど足を使って靴を脱ぎ、たっと数歩駆けると彼の腕の中に飛び込んだ。  間を置かず強く抱き締められる。強く強く、俺の形――存在を確かめるかのように。 「背中、びっちゃびちゃやん」  笑みを含んだ声が降ってき、俺は自分が汗だくな事を思い出した。恥ずかしさに熱くなってきた顔を俯かせつつ、広い胸を押し返す。しかし目の前の体はびくともしなくて。 「久し振りの感触や」  彼はそう言い、さすさすと背中まで撫でてきた。 「お前が滅多に帰ってこないから」  僅かに唇を尖らせながら小さな声で言えば、謝罪のように軽いキスが施された。 「ごめんごめん。それより、さ、早よあがって」  やっと俺を解放し奥へと促す。その頃には俺の汗もすっかりひいてた。  畳敷きの部屋にはテレビとローテーブル、その上にはリモコンやら漫画雑誌やらが乱雑に積まれ置かれてる。古いからかどことなく薄暗い部屋、そこの響く蝉の声。 「好きなとこ座って」  言われるままいつもの位置に座れば、彼は当たり前というように隣に腰を下ろしてきた。こつんと肩が触れてくる。  ふにゃっと崩れてく表情筋、そんな肩に俺は頭を乗せた。  世界から切り離されたかのような空間。二人だけの、夏。  目を閉じれば、彼の呼吸音が聞こえてきた。そのリズムに合わせて呼吸してると、安心感と融合感に睡魔が訪れてきそうで。 「今年の夏も会えて嬉しい」  柔らかい声が降ってきた。目を開け、首を動かし見上げる。淡く微笑む顔が俺を見てた。 「俺も、嬉しい」  ゆっくり、噛み締めるように告げる。湧いてきそうになる涙を気合で押し込めて。  彼は、へらっと笑うと顔を寄せてきた。  始めに額。次に鼻の頭。そして最後に唇。ちゅっと子供同士が交わすようなキスが施され、優しく細まった目が俺を見てくる。 「好きやで」 「俺も」と答える前に塞がれた。そうなればあとは二人の呼吸音と唾液が絡まる音。  口付け合ったまま二人畳に倒れ込む。ひんやりとした手が、服と肌の間に入ってきた。 「ん……ちょっと、もうするの?」  くすぐったさに身を捩りつつ、濡れた唇を僅かに尖らせる。すると、睫毛が起こす微風を感じられる距離にある顔が微笑んできた。 「やって、夏って短いやん」  ぺろっ、と赤い舌が意地悪く唇を舐めてくる。  そう、夏は短い。なら満喫するしかない……か。  毎年こうやって流されてしまっている気がする。  呆れの息を吐く俺の喉に滑るように触れてきた手は、そのまま服の中に入って胸元で蠢く。  くすぐったさと恥ずかしさとじれったさ淡く声を上げ、夏以上に熱い欲に溺れてった。  肌がくっ付き汗が混じり合い、心も体も溶けて一つになる。  夏の逢瀬。夏が終わるまで、俺らはここで愛し合う。買い込んできた食料で、朝も昼も夜もなく。  蝉の大合唱をも呑み込むような俺の嬌声。野犬よりも低く唸り体を震わせる彼。 「っ」  何度目になるだろう、彼の愛が体内に放たれた。ぐったりと圧し掛かってくる体、長々とした吐息が汗で張り付く髪の上を滑っていく。  耳障りなほどだった蝉の鳴き声は、いつしか一匹になっていた。しかしそれも弱々しい。  彼は俺から体を離すと、ぺたんと畳の上に座り込んだ。そうして破れたカーテンを纏った汚れ曇った窓、その外に視線を向ける。切なく、苦しそうな視線を。 「夏が、終わるな」  ぽつ、と独り言。俺も体を起こすと、彼の隣に座り肩を寄せた。  そこからは二人何も言わず、青々とした空が雀色時になるまで眺めていた。  ジ、ジジッ……  最後の蝉が弱々しく鳴き、静かになる。  鳥の声も人の声もしてこない静寂の時間。  言いようのない寂しさが襲ってき、俺は彼の手に手を重ねた。彼の視線が俺へと向けられるのが分かる。ゆっくり目を上げれば、泣き笑いのような表情を浮かべた顔。 「蝉も死んでもうた。じゃあ俺もいかな」 「やだ、待って!」  ぎゅっと手を掴むも、彼は横に緩く首を振るだけ。 「毎年来てくれてありがとう。また……次の夏が来るまでさよならや」  彼はへらっと情けなく笑うと、首を伸ばし優しくキスをしてきた。その頃には彼の向こうの景色が透けて見えていて。  悲しそうに微笑んだ彼の顔を目に、脳に焼き付けたいのに、涙の海に呑み込まれてちゃんと見えない。  そんな俺を無視するように、空気に溶けるように彼は消えた。  彼の手の感触の代わりに、ざらりとした畳。手の下のそれにはどす黒い染みが付いてて。  俺は、ごしっと手の甲で顔を拭うと服を着、荷物をまとめた。鼻を啜り、玄関に手をかける。  開ければ、むわっと湿度を含んだ熱気が襲ってきた。 「……来年こそは成仏させるから」  まあそう言っても、来夏も会えばただ愛し合うだけの獣になるんだろうけど。  目元を赤くしたまま、苦笑を浮かべドアを閉める。それと同時に携帯が鳴った。 「はい、もしもし」 『例の事故物件、今年も失敗ですか?』 「分かってるなら訊かないで下さい」  そうして上司の返事を待たず切る。小さく息を吐き振り返れば、さっきと同じ薄汚れた玄関ドア。ドアノブを掴み捻れば、耳障りな音を立てて軋みながら開いた。生温かく澱んだ空気が流れてき、俺に纏わりついてくる。  だけど視線の先にあるのは薄闇の部屋。彼の姿はどこにも無く、ただ彼が生きて住み、そして自死した時の痕跡が残っているだけ。  夏だけ愛し合える彼は、夏の終わりとともに消える。俺は彼を除霊しないといけないのに、好きになってしまったのが運の尽き。毎年毎夏、こうして彼と夏を過ごしている。彼の為にならないと分かっているけど…… 「また……夏が来るまで、さよなら」  ぽつ、と呟き、静かにドアを閉めた。
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