夏の終わりはあったかい

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 実家の二階にある自室で深夜番組を観ているときだった。ベッドの上に投げ出しているスマホがぶるんと震えた。メールを受信したらしい。スマホに手を伸ばして相手を確認してみると舞子だった。 『ちょっと遠くにいってくる』  なんだか要領を得ないメールである。ぼくはそのメールへの返信を面倒に思って、見て見ないふりをして返信しないことにした。   舞子のメールはときどき意味不明なことがあった。そういう場合にメールで意味を問うと、やりとりの回数が二桁になったりするのだ。非常に面倒である。明日大学で意味を確かめたほうがいいと、そんなふうに考えて返信しなかった。  ところが、舞子はその翌日から大学にこなくなってしまった。数日経っても一週間経っても大学に顔をみせない。さすがに心配になってきたぼくは、彼女のスマホに電話をかけてみた。しかし、呼び出し音が虚しく鳴るだけで、電話が繋がることはなかった。  舞子がひとり暮らしをしているワンルームマンションにもいってみた。ポストからチラシが溢れ出ており、しばらく留守をしているのが明らかだった。  以後も電話をちょくちょくかけたが繋がらず、いよいよ心配になってきたぼくは、大学の事務局に舞子のことを問い合わせた。すると、舞子は休学の手続きを取っているらしかった。  そして、それからしばらくして舞子のスマホに電話をかけると、とうとうあのアナウンスが流れるようになった。 『お客様のおけかになった電話番号は、現在使われていないか――』  その後も舞子は大学に顔を見せず、休学だと聞いていたというのに、いつの間にか大学を()めてしまっていた。みなの知らないところで休学を取り消し、新たに退学の手続きを取っていたのだ。  あっけないというより、そっけない辞め方だった。  ぼくは舞子のことを友人だと思っていたし、友人のなかでも親しいほうだ思っていた。ところが、彼女は短いメールをひとつ寄越したきりで、ぼくになんの挨拶もなく大学を辞めてしまったのだ。  はなはだ薄情ではないか。  友達と思っていたのはぼくだけだったのか。  さすがにぼくはちょっと拗ねた。  しかしながらである。当時のぼくはついつい許してしまった。  まあ、舞子だから仕方ない。  さすが最たる人たらしの舞子である。  あれからずいぶん経ったが、舞子はどうしているだろうか。  あったかい夏の終わりになると彼女を思いだす。  あのメールの文面どおりに受け取れば、舞子はどこか遠くにいったことになる。彼女はふらりとひとりで出かけたその先で、大好きなあったかいものでも見つけたのだろうか。  それは思いがけずとてもあったかいもので、大学をやめてもいいくらい魅力的なもので、もとの場所に帰るのがいやになったのかもしれない。  だとすれば、いかにも舞子らしい理由ではないか。  舞子らしいことなのだから、きっと仕方のないことなのだ。  おそらく、ぼくと舞子の(えん)はもう繋がっておらず、これから先に顔を合わせる機会は二度とこないのだろう。少し寂しさを覚えるが、それも仕方のないことだ。新たに繋がる縁もあれば切れる縁もあり、人の縁はそうやって新陳代謝していく。  そして、新たに繋がった縁はこれからの暮らしを形づくり、切れた縁は時間の流れとともにいい思い出になるのだろう。  知らんけど。  とにもかくにも、舞子は少しばかり自己中であっても、奔放に生きている(さま)がよく似合う。現在の彼女がどうしているかは知る由もないが、どこかで楽しくやっていればなによりだ。  ところで、去年の夏の終わりに、ぼくは父親になった。もうすぐ一歳になる娘は、目に入れても痛くないほどかわいい。スマホの待ち受け画面を娘にするという、バカ親然とした行為を喜んでやらかしている。  舞子が妙ちきりんでおもしろいやつなのは確かで、人として魅力的だというのも素直に認めるところだ。しかし、もし、かわいい娘が舞子のように奔放に育ったと考えると、親としてはちょっと複雑な心境になるのである。      了
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