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『おめでとうございます! 今日の一位は蠍座のあなた! 恋愛運が絶好調です!』
TVから聞こえてきた女子アナの声に、志保は動きを止めた。
『パートナーの居ない方は素敵なお相手が現れそう! パートナーの居る方は愛を深められる一日となるでしょう』
朝の準備をしながら占いコーナーを流し見していた志保だったが、自分の星座が一位と聞いては放っておけない。
彼女にとって、占いは絶対だ。
それが癖となっているのか、志保は背中まである長い黒髪を無造作に弄りながら、TVモニターをジッと見つめた。
『ラッキーカラーはピンク。ラッキーフードは煮込み料理。開運アクションは素振り! 思いっきりフルスイングして、ストレスを発散しちゃいましょう! 今日も良い一日を!』
「すっご。めっちゃいいじゃん……」
志保はdボタンを押して内容を再確認したが、確かに最高運を示す金の星が五個点いている。
「……そうだ、孝弘のところに行こう!」
――最近部屋に行けて無かったし、突然会いに行っちゃうのもありよね。彼、ビックリするかしら。今日は金曜日だから彼は定時で帰るはず。一人暮らしで栄養が足りてないだろうから何か美味しいもの作ってあげよっと。
こうして皆方志保はTVの占いに背中を押され、急遽、愛する彼、八幡孝弘に逢いに行くことにしたのであった。
◇◆◇◆◇
孝弘の部屋は十二畳ほどの広さで、通りに面した六階建てアパートの五階にあった。
玄関を入ると廊下が真っ直ぐ伸びていて、突き当たりの曇りガラスの入った横スライドドアを開けた所がリビングだ。
廊下に沿って右手にユニットバスとトイレが並び、左手は下足箱と洗濯機置き場。そして二口コンロのキッチンに冷蔵庫と続いている。
最初にこの部屋に入った時は、思っていたより狭い廊下に困惑したが、何度も来るうちにすっかり志保は慣れてしまった。
逆にこの狭さのせいで、恋人たちの距離が縮まることもあるのかもしれない。
志保はキッチンで料理をしながら、後ろから孝弘が抱きついてくるシチュエーションを想像し、顔を赤らめた。
料理が出来上がるのを待って、志保はリビングに移動した。
そろそろ帰って来てもいい頃だ。
志保はカーテンをちょっとだけ開けて、窓から外を眺めた。
下の道路をスーツ姿の青年が歩いてくる。
――来た、孝弘だ! あの位置からならもうすぐ到着するわね。よし、隠れよっと!
志保はカーテンを閉めると、所定の位置に隠れた。
ガチャガチャ。
程なく、玄関の方から鍵を開ける音が聞こえてくる。
ガチャっ。
「……カレー?」
玄関の辺りから訝しげな声が聞こえる。
――あはは。そりゃバレるわよね、玄関入ってすぐキッチンがあるんだから。あれ? 足音が消えた。ははぁ、私を驚かせようとしてるな? 可愛いんだから。バレバレだっての!
彼が玄関とリビングを隔てるガラスの引き戸を勢いよくスライドするのに合わせて、隠れていたトイレから飛び出した志保は、後ろから勢いよく彼に抱き付いた。
◇◆◇◆◇
「遅ーい! 孝くん、待ちくたびれちゃったよぉ」
「ごめんよ、可奈ぽん。博多から遠かったろう。いつ着いた?」
帰宅した孝弘は、着ていたスーツをハンガーに掛けながらリビングでTVを見てくつろいでいた可奈に話し掛けた。
「つい一時間くらい前かな。でも孝くんに逢えると思えば何てことないわ。ね、お腹空いちゃった。どっか食べに連れてってよ」
「いいよ、何食べたい?」
「カレーライス! ご近所さんが作ってるのか、さっきから漂ってくる匂いにお腹を刺激されちゃって」
「カレーね。言われてみればそんな匂いがするな。じゃ、今晩はカレー屋さんで晩御飯と行こう」
「やったね!」
そうして、遠距離恋愛中の八幡孝弘とその恋人・可奈は、連れ立って食事をしに出て行ったのであった。
◇◆◇◆◇
一方その頃。
背後から抱きつかれんとする気配を察しリビングに飛び込んで避けた男が、振り返りざま持っていたカバンから包丁を取り出し、構えた。
違和感を感じ飛び退った、ナイフ片手の志保と目が合う。
リビングの男と廊下の志保。
五メートルの距離で二つの影が対峙する。
一方は五十代の、スーツ姿に黒縁丸メガネ、スダレ髪の中年男性。
もう一方は、同じく五十代と思しき中年女性だ。
太った身体を無理矢理白いワンピースに突っ込んだお陰で、ボタンが弾けそうな程ぱっつんぱっつんになってしまっている。
ワンピース姿の志保が男を憎々し気に睨み付けながら誰何する。
「あんた誰よ! 孝弘の部屋で何やってんのよ!」
ヒステリックに叫ぶ志保を前に、スダレサラリーマンが微かに首を傾げる。
「孝弘? 入口の集合ポストに書いてあったのは、そんな名前じゃ無かったけどな……」
「そんなはず無い! そこの通りで孝弘を見かけて一目ぼれした私は即座に彼の跡をつけ、五〇五号の集合ポストから荷物を取り出しているのを見て部屋番号と名前を知ったわ。以来、私は道路を挟んだ向かい側にある自分の部屋のカーテンの隙間から、来る日も来る日も彼の部屋を覗き続けた。レースのカーテンのせいで部屋の中はほとんど確認できなかったけどね。だからたまにこうして部屋に侵入したりしてたの」
志保は男に薄く笑ってみせた。
次の瞬間、人格が入れ替わったかのように、志保の顔が怒気に包まれた。
「なのに、何で帰ってきたはずの孝弘が部屋に入って来ないのよ! あんた誰よ! 今まさに、二人の愛がスタートするところだったのにぃぃぃぃぃ!!」
広角泡を飛ばし、鬼の形相を湛える志保の顔を見て、事態を悟った男は笑った。
「……何だよ。おばさん、あんたストーカーか。俺はただの空き巣だよ。たった今、強盗に変わったがな」
強盗がニヤニヤ笑いながら包丁を弄ぶ。
「いいことを教えてやろうか、おばさん。多分だが……あんたのお目当ての部屋はここじゃないぜ? あんたはずっと別人の部屋に出入りしていたんだよ。残念だったな」
「……どういうこと?」
志保は強盗に刃物を向けながら、困惑する。
「このマンションはセキュリティを考え、各玄関扉には名札も部屋番号も架かっていない。あんたもご存じのように意外と幅が広く、各階十戸ずつあるんだが、実は管理室が一階の一番左にあるんだよ」
「はぁ? それが何さ。言ってる意味が分かんないわよ」
苛立たし気な志保に対し、強盗は冷静に続ける。
「管理室だけは流石に番号が振ってあるんだが、それが一〇一号室なんだよ。ふふっ。やっぱりあんた管理人室の存在を知らなかったな? 共同ポストも右端にあるしな。つまりあんたは、共同ポストで男宛の郵便物の有無を確認してから部屋に侵入するルートを取っていて、結果右側からしかこの建物に入ってないってことだ」
「だから、それが何だってのよ!!」
耐えかねて志保がヒステリックに叫ぶ。
「だから、共同ポストが右端にあるにも関わらず、部屋番号が実は管理人室のある左からスタートしてるってことさ、紛らわしいことにな。アパートによくある造りを考えて右からカウントしたあんたはこの部屋を五〇五号室と考えたんだろうが、実はここは五〇六号室なんだ。五〇五だと誤認識した最初っから、あんたは毎回別人の部屋を覗いてたってことだ」
「え? ってことは……」
「その何とかさんって人は、この左隣の部屋の住人ってことになるな」
志保の動きが止まる。
やがてボサボサの長髪の奥に見える志保の顔がニタっと笑みを浮かべる。
「嫌だ、恥ずかしい。……そう。私の勘違いだったってことね。邪魔しちゃって悪かったわね。私はこれでお暇させていただくわ。それじゃ」
「逃がすわけないだろ!!!!」
強盗は包丁を振り上げ、リビングから廊下の志保に飛び掛かってきた。
その瞬間、志保は右手にナイフを持ったまま左手を横に伸ばし、キッチンのガスコンロに乗せておいた片手鍋の柄を掴むと、思いっきり男に向かって投げつけた。
狙いを過たず、高温のカレーが顔を中心に強盗の前面に思いっきりかかる。
「熱ちゃぁぁぁぁぁぁあ!!」
煮込まれて熱々のカレーまみれになってリビングの床を転げまわる強盗に向かって恐れず走り寄った志保は、リビングの床に落ちている片手鍋を拾うと間髪入れず強盗の顔面目掛けてフルスイングした。
ゴワワワワワワァァァァァアン!!
「ギャァァァァァァア!!」
志保は踵を返して玄関に向かって走った。
逃走あるのみだ。
ところが、焦り過ぎたのか、志保はキッチンマットで滑って、廊下で派手にすっ転んでしまった。
「痛ぁぁぁ!」
「死ねやぁぁぁ!」
全身カレーまみれの強盗が包丁を振り上げ、廊下で転げて動けない志保に襲い掛かってきた。
怒りで真っ赤な強盗の顔が志保に迫る。
その瞬間。
玄関が勢いよく開いて何者かが疾風のように部屋に飛び込んで来ると、強盗に鉄拳をお見舞いした。
カウンター気味に強烈な一撃を食らった強盗は、パンチ一発であえなく伸びてしまったのであった……。
◇◆◇◆◇
ヒンドゥー語で『辛い』を意味する駅前のカレー屋『マサレイ』で晩御飯を食べて来た孝弘と可奈は、アパート前に停まったパトカー群と野次馬たち、そして張られた黄色のバリケードテープを前にし、口をあんぐり開けた。
「あ、あの、ボクここの住人なんですけど、何か事件でもあったんですか?」
孝弘は慌てて、アパートの出入りをチェックしている警察官に話し掛けた。
「五〇六号室に強盗が入ったんですよ。失礼ですが、あなたの部屋番号は何番ですか?」
「ご、五〇五です! 隣の部屋に強盗が入ったんですか! うわぁ、間一髪だったね、可奈ぽん!」
「怖ぁぁい! 孝くん、ギュってして!」
「はいはい。強盗は先ほど護送しましたからね。もう入れますよ。中へどうぞ」
孝弘と可奈のイチャイチャっぷりに内心辟易した警察官がバリケードテープの中に入れてくれた。
そして孝弘の部屋の隣。
五〇六号室の中では、リビングに敷かれた座布団の上で志保が畏まって正座していた。
強盗をパンチ一発でノックアウトしたのは、ここの本来の住人である増田優という男だった。
四十歳。趣味はボディビル、勤め先はフィットネスジムという、胸板が半端なく厚い筋骨隆々の大男だ。
彼が志保のことを恋人だと偽証してくれたお陰で、警察の目が志保に向かうことは無かったのだ。
警察を玄関まで見送った優は、リビングに戻ってくると志保の前に立った。
「何か月か前からお気に入りのブーメランパンツがよく無くなると思っていたら、あなたが持って行ってたんですか、志保さん」
「はい……。特に、蛍光色のピンクのパンツがお気に入りで、部屋の壁に飾って、朝晩おはようおやすみの挨拶をしていました……」
他人が聞いたらドン引きするようなことを志保は打ち明けた。
だが、なぜだか優は苦笑するだけに留める。
それより、何の意味があるのか、優は腕組みをしつつ志保の周りをゆっくり歩き、色んな角度から志保を観察している。
「本当に申し訳ございません。あの、どういったお詫びをすれば許して頂けますでしょうか……」
志保がぱっつんぱっつんの白のワンピースのまま、その場で恐縮して縮こまる。
迷った末に、優が口を開いた。
「志保さん。あなた昔何かやっていましたか? 学生時代とか」
「学生時代? アマレスを少々……」
納得と言いたげに、優は手をポンと叩いた。
「なるほど、だからか。ねぇ志保さん。あなた、今でこそ贅肉が身体を覆ってはいますが、元の骨格や筋肉の付き方がとってもいいですよ。僕と一緒に身体を鍛えてみませんか? うちのジムなら、初回二か月間無料です。更にうちには日焼けマシンもあるんですよ。こんがり健康的に肌を焼いたら、嫌なこともサッパリすっ飛びます。どうでしょう」
優がニカっと笑う。
不自然なほど、歯が白い。
褒められるということを何十年振りかで経験した志保の口が緩む。
「う、うひひ。じゃ、じゃあ……はい、やります……」
こうして志保は、優に勧められるままフィットネスジムの会員になったのであった。
◇◆◇◆◇
半年後――。
優の勤める駅前のフィットネスジムには、優の的確な指導により健康的に痩せ、筋肉も付き、腹筋が割れ、小麦色の肌を纏った志保の姿があった。
以前のだらしない姿からは想像できないほどの変貌ぶりだ。
たった半年で劇的な身体改造を成し遂げた志保は、ジムでは美魔女としてちょっとした有名人になっていた。
更に、献身的な指導をする優との間に愛が芽生え、遂には付き合うようにまでなり、志保は幸せの絶頂にあった。
もう、自室のカーテンの隙間から孝弘の部屋を覗いていた引きこもりは居ないのだ。
志保はバーベルを上げながら、すぐ隣で補助をしてくれている優に向かってニカっと笑った。
優もそんな志保に向かって、ニカっと笑う。
あの占いを信じ行動したお陰で、志保はようやく幸せを手に入れたのであった。
END
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