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桜井優が周囲との決定的な差異を意識したのは、中学にあがってすぐの春だった。
きっかけは野球部の紅白戦だった。長打を打って走塁したとき、ショートの守備についていた先輩と交錯したのだ。泥まみれの体が絡みあい、差し伸べられた手を握った瞬間、彼の全身を稲妻が貫いた。
桜井優はリトル・リーグのエースで、野球しかしたことがなかった。生まれてはじめての衝撃に、彼は戸惑い悩んだ。
だれに相談することもできなかった。とくに厳格な父親には気取られないように注意した。悶々とした気持ちを持て余しながら、彼は永遠にも思える不毛な自慰を繰り返して少年時代を過ごした。
先輩が卒業し、次の年に彼もべつの高校へ進学した。肘を壊したことをきっかけに、部活を柔道へと変えた。ここでも彼はすぐに能力を開花させ、弱小だった柔道部を全国大会へと導いた。自身の性癖について明らかにすることはなかった。
はじめての恋人と出会ったのは地元の大学だった。流行の服を着こなし、洗練された年上の男に、彼は夢中になったが、けっきょくは手ひどく弄ばれ、棄てられた。衝動に任せて拳をふるった翌週の晩、アルバイトの帰り道で拉致された。
数人にかわるがわる殴られ、犯されながら、桜井優はセカンドベースと先輩の体臭を思い出した。
大学を中退すると、桜井優は単身上京し、繁華街で働きはじめた。同時に家族とは絶縁状態となった。
店ではそれなりの地位を確保していた。踊りは並以下だったが、化粧の技術は抽んでていた。接客をやめ、専属のメイク担当に据わった。雑誌に取り上げられたのをきっかけに、テレビ局のスカウトを受け、本格的にメイクアップ・アーティストへの道へすすんだ。数年とたたないうちに売れっ子になり、評判を聞きつけた女優の担当を経て、ハリウッドにも進出した。帰国した彼を待っていたのは、華々しい芸能の世界だった。桜井優はいまや押しも押されもせぬ一流のアーティストだった。
冷たい水で手を洗う。スカルプチュアに施したラインストーンを気にしながら、ハンドタオルで水滴を拭った。身を乗り出して鏡を見つめながら、化粧をなおす。フランスで購入したばかりのファウンデーションの効果はてきめんで、月面のようだった肌も多少の回復を見せはじめていた。お世辞にも愛らしいとはいえないご面相ではあるが、それなりに隠しとおせているという自信はあった。素顔の状態など、自分でも思い出しきれない。
壁一枚を隔てたリビングでは、馬鹿騒ぎがつづいている。カンヌ映画祭に正式に招待された大作映画の打ち上げである。だれもが浮かれていた。もちろん、桜井優も例外ではない。興奮とアルコールで熱った肌に再度パフをあてて、化粧室を出た。
リビングの中央では、出演者やスタッフがそれぞれにワインやウイスキーのグラスを手にして話し込んでいた。中央には主演の三島慶介。中性的な顔立ちで世の女性を魅了する若い俳優である。その超越的な美貌から、はじめのうちはアイドルくずれの甘ったれと業界の鼻つまみものであったが、ある時期からめきめきと実力をつけはじめ、仕事にも謙虚な態度で臨むようになり、わずかな時間で日本を代表する名優にまで昇りつめた。桜井優も、以前は彼を嘲り、立場を利用して嫌がらせをしたこともあったが、今となっては認めざるをえなかった。
挨拶をしてくるスタッフを適当にあしらいながら、桜井優はさりげなく三島を観察した。すこしもしないうちに、三島が輪を離れた。ほぼ同時に、桜井優も動いた。
「三島ちゃん」
英国ふうの広い庭に出た三島の背中に、声をかける。三島は驚いたように振り向き、桜井優に気づくと、表情を弛めた。
「サル」
「どうしたのよ、ぼんやりしちゃって」
「べつに」
「もう酔っ払っちゃった?」
「ちょっとね。風にあたりたくて」
細い指を額にあて、三島が苦笑いする。桜井優でさえはっとするような艶やかな横顔であった。
「顔が赤いわよ。こっちにいらっしゃい」
そつのない笑顔を浮かべ、桜井優は手招きをした。三島は迷ったような表情をつくったが、誘われるままに門を出た。
別荘地の舗道にひとどおりは皆無で、喧騒を背にふたりはしばし佇んだ。
「どう、お散歩しない」
「そうだね」
自分よりはるかに大柄な桜井優を見上げて、三島は首を竦めた。
「いや、やっぱりやめとくよ。もうもどらないと」
「まだいいじゃない」
「でも、監督と話したいから」
「あたしと話すのは嫌なの」
「そういうわけじゃないけど」
「三島ちゃん」
ドレスの皺を気にしているふりをしながら、桜井優はそっと三島から目を逸らした。
「あたしのことを恨まないの」
「恨むって、なんで」
「あんたをひどいめに遭わせたから」
桜井優の言葉に、三島は微笑した。
「昔のことだよ。もう忘れた」
「そう?」
別荘から漏れる灯りの下、ふたりは見つめあった。ヘッドライトに目を刺されて、三島が顔を伏せる。道を空けるために後ずさろうとする腕をつかんだ。
ふたりのすぐそばで、白のグランディアが停止した。
後部座席のドアがスライドし、伸びた腕が三島の口を塞いだ。
桜井優は三島の腕を離した。男性にしては小柄な三島の体は、瞬きもしないうちに、グランディアの車内に吸い込まれていった。
桜井優はテール・ランプが闇にまぎれるのを無表情に見送った。別荘内にもどろうと体を反転させ、立ちどまる。チーフ・プロデューサーの小沢が玄関から門に向かってくるところだった。
整然と刈り揃えられた花壇の背は低く、桜井優の巨体を隠してくれるような建物もちかくにはない。桜井優は咄嗟に小沢のほうへ歩み寄った。
「ハーイ、小沢ちゃん」
桜井優に気づくと、小沢は挨拶代わりにちいさく頷いた。無愛想な男だが、決して悪意があるわけではない。桜井優はおどけた動作で腰をくねらせた。
「あたしに会いにきてくれたの?」
「いや」
小沢はにこりともせずにいった。桜井優から視線をはずして、広大な庭を見渡す。
「三島くんがいないなと思って。見ませんでしたか」
「さあ。なかにいるんじゃないの」
「出て行くところを見たって」
「だれと?」
薄明かりの下、ふたりの視線が絡む。
「彼のこと、ちょっと買い被りすぎだと思うわ。あなたに限ったことじゃない。今は大物気取りで澄ましているけど……」
小沢は無言で踵を返した。桜井優に目を向けることなく、きらびやかな家にもどっていく。
しなやかな筋肉に覆われた背中を見つめながら、桜井優は罅割れた親指の皮膚を噛んだ。
男たちは写真を撮らなかった。おそらく、あらかじめきつくいわれているのだろう。サルもそこまでする気はないらしい。あるいは、自らの保身が頭にあったのか。
どちらにせよ、三島のほうにも騒ぎたてるつもりはなかった。当然同意の上ではなかったが、数度頬を打たれて、抵抗心を失った。諦めではない。週明けに控えた試写会に出るためだ。主役が穴を空けるわけにはいかない。強靭なプロ意識が、三島の体から感覚という感覚を奪い去った。それでも、やはり無意識に緊張していたのだろう。起き上がろうとした体が重く痺れていた。下半身の不快感はさらにひどい。3人の男たちのそれぞれの精液にまみれ、局部には血も滲んでいる。数年ぶりに、しかも強引に開かれた体は、理不尽な苦痛に悲鳴を上げかけていた。
サルを怨まないわけはなかったが、それをはるかに凌駕する怒りを自分自身の浅はかさに感じた。以前まではもっと張り詰めていた。それなりに遊び、いくつかの修羅場も潜り抜けてきた。すくなくとも、これほど簡単に拉致されることはなかったはずだ。サルの誘いに乗って外へ出てしまったことは、今となっては悔やんでも悔やみきれない。何年も前の話だが、やっかみから嫌がらせを受けたこともある。いっしょに仕事をしていても、決して気をゆるしてはいなかった。しかし、サルの特異なキャラクタと絶妙な言葉運びに、ほんの一瞬、警戒心を解いてしまった。好かれているとは思っていなかったが、こんなことをされるほど憎まれることをしたおぼえもなかった。実力派といわれる役者になり、どこへ行くにもつねにSPやスタッフがくっついているという状況が、三島の神経を鈍化させていた。
監督の私有地を会場にした、ごく限られた関係者が集まる内輪のパーティである。ヴェテランのマネージャーも、さすがに気を抜いたのだろう。今頃顔面蒼白で三島を探しているのにちがいない。
うまいいいわけを考えておかなければならなかった。肘を立てて体を起こすと、ドアノブがまわった。格安のビジネスホテルではあるが、いちおうオートロックらしい。ドアが外側から圧され、切なげに軋む。
「三島くん、いるのか」
切迫した低い声が耳に飛び込んでくる。サルの怨みの深さは、三島の想像を越えていた。烈しくなっていくノックの音を遠くに聞きながら、三島は思わず胴震いした。
新桜台の小沢のマンションは思いがけず掃除が行き届いていて、質素ではあるが、快適そうに見えた。小さめのバスタブに湯を張って肩まで浸かると、ようやく全身の緊張がとれた。
バスタブの縁に足をかけ、丹念に自らを清めた。病気の不安がないではないが、今更考えてもしかたがないと居直ってしまうことにする。
冷水に浸したタオルで貼れた頬を冷やしながら、時間をかけて風呂に入り、小沢が用意したセーターとスラックスを着た。リビングとベッド・ルームがひとつになった10畳ほどの部屋の端で、小沢は床に直接あぐらをかいていた。窓のほうを向いていて、表情は見えないが、まるまった大きな肩に、胸が締めつけられる。
「どこかに連絡した?」
「いや」
おどけた調子で近寄り、首を伸ばして小沢の表情をうかがった。小沢は瞑想でもしているかのように目を閉じていた。三島の視線を感じてか、ゆっくりと目を開いた。眼球だけが動いて、三島をとらえる。ぎこちない笑みが消えた。
「すこし落ち着いてからのほうがいいだろう。自分でマネージャーに連絡しろ」
無言で頷いた。三島が自分の胸に秘めておくつもりでいることを、すでに察しているのだ。
三島は余ったスラックスの裾を気にしながら、小沢の斜め後ろに座った。半分開いたカーテンの隙間から、墨を撒いたような冬の夜空を眺める。
「おれのせいだ」
独白のように、小沢がいった。
「おまえのちかくにいればよかった。いないことを知っていたのに、のんびり酒なんか飲んで……」
「チーフのせいじゃないですよ」
うなだれた小沢の肩に向かっていう。
「あなたの仕事はぼくの面倒を見ることじゃない。助けにきてくれただけで、嬉しかったです」
「間に合わなければ、意味がない」
「意味はあります」
小沢が首を捻る。顔を伏せそうになるのを耐えながら、三島は自虐的な笑みを浮かべた。
「茅野Pと付きあっていたことは知ってるでしょう。その前にも、何人かの男とそういう関係だったことがある。付きあっていなくても……」
「もういい。やめろ」
「貞操なんてとうの昔になくしています。今更どうってことはありませんよ」
小沢は黙って三島を見つめた。手が伸びて、厚い皮膚が頬に触れる。撲たれたときの痛みが甦って、思わず肩を強張らせた。腫れはほとんど引いていたが、衝撃の記憶がいまだに残っているのだろう。自分で思っているほど強かではないということか。もしかすると、小沢がそばにいるせいかもしれない。苦笑いが浮かんだ。
「ワイルド・キャットだ」
「なんですか?」
小沢は唇を蠢かせるように無感動にいった。
「おまえからは生まれつきの品の良さが滲み出ている。だらしない格好で悪ぶった態度をとったとしても、品格が損なわれることがない。だのに、ときどきびっくりするほど安っぽい顔になる。そこが、ほかのアイドルとはちがうところだな」
「勘弁してくださいよ」
三島はあからさまに顔をしかめた。小沢の手から逃れるように横を向く。
「小沢さんに分析なんてされたくありません」
「そうか。そうだな」
小沢は詰めた息を吐いて微笑した。そのまま表情を歪める。なんの前触れもなく、三島の首に腕をまわした。きつく抱きしめる。加減なしだった。不安定な姿勢で、三島は硬直した。心臓が早鐘をうちはじめる。
「まもってやる」
密着していなければ耳に入らないであろう小さな声で、小沢がいった。
「おれがまもってやる」
言葉はそれだけだった。それだけでよかった。小沢の胸に顔を埋めて、三島は身も世もなく泣いた。小沢の不器用なやさしさに触れてひとりうずくまった日以来の、二度目の涙だった。
白目がちの小沢の目は、三島をとらえて離さなかった。いかにも無感動な、ふだんと変わらない瞳ではあったが、三島は奇妙な胸くるしさをおぼえた。拭い去りきれない過去が強烈な罪悪感となって鳩尾のあたりに重力をかけたが、目を逸らすことはできなかった。
意外なことに、先に顔を背けたのは小沢のほうだった。嫌悪や戸惑いではなく、思考のためだった。あえて念を押すまでもなく、彼には男性との経験は皆無であり、どのような態度をとっていいのか考えあぐねているのだった。途方に暮れた風情を、三島は愛しく思った。小沢の躊躇が愛おしくてたまらない。
聖母を演じているといえば、罰があたるかもしれない。マグダラのマリアを思い浮かべながら、手を差し伸べた。荒れた手の甲を巡る血管が、指先をとおして強い生命力を訴えてくる。
愛していると思った。おなじ瞬間に、体を寄せた。腕を引かれ、ベッドに押し上げられた。無精髭のざらついた感触を心地よく思いながら、くちづけを受けた。小沢の舌先は、稚拙ではあるがじゅうぶんに心遣いの感じられる熱っぽい動きで三島の口中をさぐった。
薄い闇のなかで、互いの衣服を取り去った。まもってやるなどといっておいて、小沢はなかば強引に三島の内部に指を侵入させた。瘡蓋をはがされたような痺れがはしったが、表情には出さなかった。小沢の薄い知識を埋めるよりも、知ることで空いた空白を彼によって埋め尽くされてしまうことのほうが大事だった。
しかし、小沢はそれ以上急くことはなく、患者の診断をおこなう医師のように入念に、黙々と指を動かしつづけた。これまでにもたくさんの男がおなじ手法をとったが、みな一様にあらゆる手練手管を用いて主導権を握ろうとした。だが、小沢はまるで勉強中に机を叩く受験生のように、飽くことなく一定の速度と力を保って圧迫するだけだった。慣れから緩慢になった三島の裡はもどかしさを訴え、下腹が捩れた。そこではじめて、小沢が顔を上げた。視線が絡む。顔が熱くなり、思わず微笑が漏れた。苦痛は消え去り、呼吸が早まった。眉間に皺を寄せ、三島はシーツにこめかみを擦りつけた。
「だいじょうぶか」
頷く。切迫しかけていた。目の前に突かれた小沢の腕に縋って、大きく深呼吸した。首の周辺を、小沢の息が通り過ぎた。
ゆっくりと体が重なって、小沢の触覚が三島を貫いた。苦痛がないわけではない。しかし、ほとんど感じなかった。不自然なことはなにもないというような錯覚さえおぼえるほどの、穏やかな動作。空気をかき混ぜるように揺れた。
困ったことに、また鼻の奥が熱くなった。信じられない。こんなセックスがあったとは。触れたところから順に溶けて染み出ていくようだった。
小沢の呼吸が荒くなり、律動が早まった。三島は渾身の力で小沢を抱きしめた。ほどなくして、体のなかの小沢が密度を増した。慌てた素振りを見せる小沢を、三島はきつく締めつけた。直後、爆ぜた。下腹に拡がるねっとりとした熱をしみじみと感じながら、三島は全身で息をついた。
弛緩したまま、じっとしたままでいた。小沢はまだ三島のなかにいる。責めるような、おどけたような顔だった。
「馬鹿野朗」
「馬鹿はあんたでしょう」
唇を尖らせ、小沢をにらみかえす。
「おれは醜い」
独白めいた口調で呟いた。小沢は生真面目に頷いた。
「分析するがな」
淡々と、いった。
「おまえはきれいだよ」
住宅街の陳腐な街灯の光を浴びながら、桜井優は佇んでいた。電気の消えたマンションの窓を見上げ、毛皮のコートを翻して踵を返した。
油の浮いた鼻の頭から鼻腔にかけて、セカンドベースの土の匂いが抜けて消えていった。
おわり。
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