心配性

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 言われて初めて思い出した。彼女と付き合う前、ぼくはいわゆるバックパッカーだった。アジアの国もずいぶんと回った。タイやシンガポール、マレーシアにベトナム。韓国のソウルはそのうちのひとつだった。当時はとにかく金がなかったので安く泊まれる宿を探していた。ユースホステルのなかでもさらに安価な場所を探し、世界中のバックパッカーと情報交換して安い宿、安い宿へと渡り歩いた。財布をすられそうになったり、ナイフで脅されたり、ずいぶんと危険な目にも遭った。  そのホテルには2月に泊まった。その日のソウルは刺すような寒さで、狭い部屋に二段ベッドで数人のバックパッカーたちがいた。暖房機器が壊れていたのか、そもそも普段からまともに機能してないのかはわからないが布団の中にくるまっていても寒くて眠れないほどだった。なかには布団のなかで寝袋にくるまっていたやつもいた。  ほかのやつらがやっていたように酒を飲んで寝たら凍死してしまうかもしれないと思ったぼくは、どうせ眠れないなら、とそのユースホステルの屋上に出て日の出を見ることにした。山で使うような携帯用のガスコンロを持って、そこで湯を沸かし、辛いインスタントラーメンを作った。  そうしているうちに夜が明けた。暗くて寒いソウルの空に色がつき、街に太陽の光が下りていく。寝袋にくるまり、鼻水をすすりながらその辛いラーメンをスープまでぜんぶ飲んだ。そのときの味は今でも覚えている。  なんだ、そういうことか。  彼女はぼくとその体験がしたかったらしい。それならバレたら怒られるだろうけどできないこともない。彼女の入院している病院にガスコンロと水を持ち込んで、こっそり彼女の車いすを押して屋上へと忍び込んだ。セーターの上にダウンジャケットを着こみ、携帯用のヒーターを持ち込んでぼくたちはそこでラーメンを作った。  二袋のインスタントラーメンを鍋に入れて煮込んだけど、そのほとんどはぼくが食べた。彼女は近頃ますます食欲が落ちたみたいだ。  あの日と同じ二月、日本の深夜も記憶の中のソウルと同じくらい寒い。夜がますます深くなり、その闇を朝日が照らす直前に、白い息を吐きながら彼女は言った。 「もしどこかに行きたくなったらわたしを置いて行ってもいいんだよ。知らない場所に行くのが好きだって言ってたでしょ」  そんなことは考えたこともなかったから、とっさに気の利いたことを言うことができなかった。だから何か言う代わりにぼくは黙って彼女の手を握った。それから夜が明けた。    あれからずっと彼女の言ったことを考えている。確かにぼくは知らない場所に行くのが好きだった。でも、通い慣れた病院だって、屋上に行ったのはあれが初めてだった。遠くに行かなくても知らない場所に行くことはできる。今日彼女に会ったらそうやって反論するつもりだ。 了
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